多田満頼(ただ・みつより) 1501?〜1563

甲斐国武田氏の家臣。通称は三八郎。淡路守。
出自は美濃国出身の浪人と伝わり、武田信虎の時代に武田家臣団に加えられ、その子・武田信玄の代には『甲陽5名臣』のうちに数えらるほどの出頭を果たしている。
29度の合戦に従軍して29度感状を授かり、その身体には27ヶ所の刀疵を帯びていたという武田家中屈指の足軽大将。
満頼が晩年に信濃国虚空蔵山の砦を守備した際、「火車鬼」退治をしたという伝説を持つ。この火車鬼とは、生前に悪事を働いた亡者を火の車に乗せて地獄へ運ぶという、仏教経文に出てくる悪心の鬼のことだが、満頼が現世の力の及ばない地獄の権力者をも退治できるほどの豪傑であったということから生まれた逸話であろう。
満頼は夜戦が得意だったようで、天文9年(1540)の信濃国佐久への侵攻では信虎の指揮のもとに満頼が夜戦の采配を揮い、武田方を勝利に導いたという。ほか、天文16年(1547)8月の信濃国小田井原の合戦(志賀城の戦い)、天文17年(1548)7月の勝弦峠(塩尻峠)の合戦などでも戦功を挙げた。
永禄6年(1563)12月に病死した。享年63か。なお、永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回には満頼ではなく、子の新蔵が従軍している。