天文17年(1548)2月の上田原の合戦での敗戦によって武田氏が大打撃を受けたことを知った信濃国府中の林城主・小笠原長時は、信濃国から武田勢力を駆逐するべく、義弟の藤沢頼親、更級郡の村上義清や安曇郡の仁科道外らと連合して同年4月中旬に諏訪地方に攻め入り、諏訪下社を占拠した。これと並行して佐久地方でも土豪の一揆が頻発し、反武田勢力が勢いを盛り返したのである。
この情勢を受けた武田信玄は、軍容を整えて7月11日に甲府を出陣し、18日に上原城に入った。この行軍に8日間を要しているのは、内応工作を行っていたためとも目される。一方の長時はその頃、5千余の兵を率いて勝弦峠(塩尻峠)まで軍勢を進めていた。
そして19日の未明、信玄は密かに全軍に移動を命じて勝弦峠に登らせ、小笠原勢の寝込みを襲ったのである。不意の襲撃を受けた小笠原勢は軍装の支度をする間もなく攻めたてられ、さらには小笠原勢として出陣していた三村氏らが武田氏に内応したともいい、小笠原勢は総崩れとなって敗れ去り、長時は本拠である林城を目指して落ちていった。
この敗戦で小笠原勢は1千余の戦死者を出したという。