諏訪氏を討滅して信濃国の一部を支配下に収めた甲斐国の武田信玄の矛先はさらに北上して北信濃に向けられたが、更級・埴科地方を領有する葛尾城主・村上義清が立ちふさがることになる。
義清は天文17年(1548)1月18日、武田氏に対する軍事行動を起こした。これに対抗するために信玄も7千の軍勢を率いて2月1日に甲府を発向、雪の深い野辺山高原を避け、諏訪から大門峠を越えて小県郡に入った。当時、村上義清は佐久方面に進出して小県郡の塩田城を前線基地にしているという情報を得ていたため、信玄は塩田城と葛尾城の間を分断する作戦を取ったのである。
それに対し義清も葛尾城を出て佐久方面へと向かい、2月14日、千曲川支流の初川(産川)・浦野川の河原(ここが上田原と呼ばれる)で合戦となった。義清の軍勢は5千とも7千ともいわれている。
合戦の帰趨は、武田勢の先鋒・板垣信方隊が村上勢の第一線を突破して敵陣深く追い込んだが、勢に乗じて深追いしすぎたため、逆に土地勘のある村上勢に包囲されて壊滅、信方は討死を遂げた。これに勢いを得た村上勢が猛反撃に転じたため、武田方の甘利虎泰もこれを支えきれずに戦死、信玄自身も槍で左腕を負傷した。
後詰の小山田信有の奮戦によって辛うじて全滅の危機を免れることができたが、筆頭家老ともいうべき地位にあった板垣信方・甘利虎泰の両名をはじめとして7百余の将兵を失う大敗北を喫した。
しかし村上勢にも戦死者は多く、この合戦での兵力の減少が村上氏の滅亡を早める要因になったともいわれる。
なお、史書によってはこの合戦を「塩田原の合戦」と称している。