甲斐国武田氏の重臣。備前守。甲斐国巨摩郡甘利郷の領主。
甘利氏は武田氏の始祖である武田信義の子・一条忠頼の二男である行忠が甘利荘司となって地名を冠したという古くからの武田支族で、その代々が重く用いられた。虎泰は武田信虎・信玄の2代に仕えた侍大将で、とくに信玄の時代には板垣信方と共に家臣団の筆頭的地位にあり、信玄の補佐を務めた重臣。
政務だけでなく軍略でも優れた働きを見せ、合戦では常に先陣に立ち、用兵・駆け引きの妙を見せた。
主な活躍年代は信虎の時代であるが、信玄の時代には信濃国侵攻に従軍しており、天文16年(1547)の志賀城の戦いにおける小田井原の合戦、天文17年(1548)2月の上田原の合戦(別称:塩田原の合戦)などに出陣したことが知られる。また、天文11年(1542)3月に信濃国の小笠原・諏訪・村上・木曾氏の連合軍を迎え撃った「瀬沢の合戦」で負傷したと記す史料があるが、この合戦の存在自体を否定する説もある。
天文17年2月14日、村上義清との上田原の合戦で、地の利を得た村上勢の猛攻に武田軍は大崩れとなり、虎泰は板垣信方と共に武運尽きて戦死した。