板垣信方(いたがき・のぶかた) ?〜1548

武田家臣。駿河守。武田氏の一族で筆頭家老の地位にあり、武田信虎信玄の2代に亘って仕え、武田家の重鎮として活躍した。また少年時代の信玄の傅役を務め、若き信玄が文学に熱中するあまりに詩文に凝りすぎたことを憂え、死を賭して諫めたという。
天文9年(1540)4月に武田勢が信濃国佐久郡に侵攻したとき、10以上の城を攻略した。
天文10年(1541)に信玄が父である信虎を追放した事件では、信虎を今川家へと送り届ける計画の中心を担い、言うなれば信玄の起こしたクーデターを無血のうちに実現させる原動力となった。
原虎胤甘利虎泰横田高松・萩原昌勝などと共に、創業初期の信玄を大いに援けた。浪人であった山本勘助を信玄に推薦したことでも知られる。
諏訪侵略戦、塩尻の合戦、佐久平定戦などに活躍して、天文12年(1543)4月には諏訪郡代に任じられた。合戦上手なだけでなく、領国の経営にも優れた手腕を発揮した。
天文15年(1546)10月、信玄の代理で上野国笛吹(うすい)峠に出陣して上杉憲政の軍勢を破った。
天文17年(1548)2月、村上義清との上田原の合戦で戦死。法名は無一脱心大天居士。