武田家臣。備中守。武田信虎・信玄の2代に亘って仕えた足軽大将で、諸書が一致して『武田二十四将』のひとりとして挙げる名将。
もとは伊勢国または近江国の住人で、出自は近江国佐々木氏の一族ともいわれるが、甲斐国に移住して信虎に仕え、信玄の時代には食禄3千貫、騎馬30騎、手勢は百人の侍大将格だった。
参加した合戦は34回、身に受けた傷は31箇所という歴戦の猛者。また、敵の動静を察知するに敏な武将であったと伝えられる。
天文年間中期の東信濃侵攻の際には、板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌らと並んで横田隊も武田の精強部隊としてその名を馳せた。
天文16年(1547)の信濃国佐久郡の志賀城の戦いにおいては、正面攻撃を仕掛けて城将・笠原清繁に正攻法と見せながら、裏山の崖をよじ登って城の水の手を抑え、また、上杉憲政より派遣されて志賀城の後詰に来援した軍勢を迎撃して敗走させる(小田井原の合戦)など、縦横無尽の働きを示した。これらの活躍ぶりから後年、信玄をして「戦上手になろうとするなら横田のようになれ」と言わしめたという。
天文19年(1550)の信濃国戸石城の戦いでは、攻めあぐんだ武田勢の緊張が緩んだところに背後からの村上義清の急襲を受けたとき、殿軍を務めて村上勢の猛攻をよく防いだ。
この間に信玄本隊は無事に撤退できたが、高松をはじめとして1千余の将兵が討死した。