戸石(といし)城の戦い(武田の戸石崩れ)

信濃国の戸石(砥石)城は村上義清の本城・葛尾城の支城で、塩田城とともに村上氏の小県方面への拠点である。甲斐国の武田信玄は、天文17年(1548)の上田原の合戦での敗戦後も着々と勢力を拡げて信濃国併合を目論んでいたが、義清が中野の領主・高梨政頼と争っていることに乗じて北信濃に侵攻する。

戸石城は天嶮の要害を守られた堅城であった。広い山上に構えられた城の東には神川を見下ろす絶壁を従え、西も険しい尾根であり、多くの堀によって守られている。
信玄はこの戸石城を攻めるため、先鋒隊を天文19年(1550)8月5日に諏訪より発向させ、自身は19日に同じく諏訪より5千の軍勢を率いて出立、28日に戸石城近くの屋降(または尾降)に本陣を構え、包囲態勢を築いた。その後は偵察を行いつつも圧迫をかけ、9月3日には本陣をさらに城に寄せている。
武田勢が戸石城の総攻撃に及んだのは9月9日の夕刻である。信玄は精鋭隊を編成して突撃を敢行させたが、攻めるに難く守るに易い戸石城は武田勢の攻撃を寄せ付けなかった。この日より8日間に亘って、戸石城とその周辺で村上勢との激戦が展開されている。
その後の戦況は膠着していたが、高梨政頼と和睦した義清が戸石城の後詰のため突如として来援し(一説には、城内に籠もっていた義清が密かに城を抜け出て、とも)、その手勢を率いて武田勢の背後から激しく攻め立てたのである。この急襲による挟撃を受けて武田勢は総崩れとなり、武田氏重臣・横田高松を含む死者1千余人、負傷者2千余人にのぼるという大敗北を喫した。
結局、信玄は10月1日に全軍に退去命令を出した。
この戸石城をめぐる攻防戦は『武田の戸石崩れ』とも呼ばれ、信玄にとっては上田原の合戦に続く二度目の大敗北であった。