武田元綱(たけだ・もとつな) 1441〜1505

安芸国佐東・安南・山県郡の分郡守護であった武田信繁の四男。若狭・丹後守護となった武田信栄信賢国信の弟。諸系図では嘉吉元年(1441)5月21日生まれとされる。従五位下。
3人の兄は若狭守護となって若狭国や京都の幕府に出仕していたが、元綱は父の信繁とともに安芸国銀山(金山)城に在り、寛正6年(1465)11月に信繁が没すると銀山城主の地位を継いだと思われる。
応仁元年(1467)より始まる応仁の乱に際しては、東軍(細川方)に属した兄の信賢・国信を支援するために上洛し、9月1日には等持寺に畠山義就勢を攻めている(三宝院の戦い)。
文明3年(1471)初頭頃に西軍(山名方)に転じて4月には安芸国に帰国。父が帯びていた安芸国3郡の守護職は永享12年(1440)に兄の信栄に若狭守護職と併せて与えられたため元綱には継承されなかったが、中国地方の大大名・大内政弘の在国宿老である陶弘護と結び、郡司らを討つなどして実力で勢力を伸ばした。
応仁の乱の終息後も大内氏に属し、兄たちの系統である本宗家とは反目していたが、大内政弘が幕府の政所執事・伊勢貞宗に仲介を依頼したことで文明13年(1481)に国信と和解し、あらためて安芸国の目代(代官)として銀山城主に任じられた。
延徳2年(1490)の国信没後も安芸国の分郡守護職は国信の子・武田信親に継承され、在地の元網には付与されず、目代の地位に留まっている。
永正2年(1505)2月15日に死去。