武田信賢(たけだ・のぶかた) 1420〜1471

若狭国武田氏2代当主。武田信繁の二男。母は甲斐武田氏・武田信春の娘。武田信栄の弟。武田国信の兄。通称は彦太郎・宗賢。治部少輔・大膳大夫・陸奥守・伊豆守。若狭・丹後・安芸分郡守護。
身長が7尺9寸もある猛将と伝わり、その体躯と官途名から『伊豆大人』とも呼ばれた。
室町時代の初期における武田氏は安芸国の3郡の支配を任じられる分郡守護であったが、将軍・足利義教の命を受けて永享12年(1440)5月に一色義貫を討伐した功により、兄で武田氏当主である信栄が若狭守護職を併せて拝領したが、若狭入部直後の7月23日(一説には嘉吉元年12月)に没したためにあとを継いで家督を相続した。
嘉吉元年(1441)には足利義教を謀殺した赤松満祐の討伐に従軍し、土一揆に便乗して蜂起した一色氏残党を鎮圧した。
文正2年(=応仁元年:1467)1月15日には管領・細川勝元邸に招かれて謀議を巡らしたといい、その3日後より始まる応仁の乱に際しては副将格として東軍に属している。
文明元年(1469)には丹後国を制圧し、丹後守護職を拝領。しかし応仁の乱における数々の戦闘において多くの将兵を失い、文明3年(1471)1月には弟・武田元綱が寝返って西軍に属すなど武田氏にとって芳しい状況ではなく、同年6月2日に苦境の中で急逝した。享年52。法名は大通寺殿大人宗武大居士または光徳寺殿道祐教山大居士。
家督は弟・国信が継いだが、信賢子息の有無は不明である。
領国経営においては丹後・安芸国などにも積極的に派兵して所領拡大を図り、経済政策としては文安元年(1444)に国中半済(年貢納入の減免措置)を行うなどして支配体制の確立に努めたことが知られている。
武芸だけでなく文芸にも長じ、とくに和歌に造詣が深かったという。