武田国信(たけだ・くにのぶ) 1438?〜1490?

若狭国武田氏。安芸国武田氏・武田信繁の三男。若狭守護となった武田信栄武田信賢の弟。通称は彦太郎であるが、この名は兄の信賢も名乗っているので、その死後に受け継いだものであろう。従四位上・治部少輔・大膳大夫。幕府の御供衆にも名を連ねている。
文正2年(=応仁元年:1467)1月15日には信賢とともに幕府管領・細川勝元の邸宅に赴いており、結果としてその3日後に勃発することになる応仁の乱への対応策を協議したとみられる。乱が起こると信賢とともに安芸・若狭国の兵を率いて細川勝元陣営(東軍)に与し、東軍の中核として京都での戦いに武功を挙げた。応仁2年(1468)9月には、室町幕府8代将軍・足利義政の弟で伊勢国に出奔していた足利義視が東軍陣営に帰参するにあたり、信賢の命を受けて義視の迎えに出向いている。
しかし文明3年(1471)1月に弟の武田元綱が西軍に寝返り、さらに同年6月には兄で若狭国武田氏の当主であった信賢が急死するという事態を受け、その家督と若狭・丹後・安芸3郡の守護職を相続した。
文明6年(1474)4月に東西両軍の首魁であった細川政元山名政豊が和睦したことで中央政局での抗争は終息し、武田氏の前代に丹後守護であった一色氏が幕府に帰参したために5月には丹後守護職を一色義春に返付させられた。これに際し、とくに丹後戦線にあった家臣がこの丹後返付を不満として一色勢と戦ったが敗れており、これらを悲観してか、国信は出家して宗勲と号した。
文明10年(1478)2月には子の信親を将軍父子のもとに御供衆として出仕させており、自らも在京守護として幕府を支えた。
文明13年(1481)、元綱と和解して改めて安芸国所領の代官に任じた。
長享元年(1487)に9代将軍・足利義尚の近江国出征(鈎の陣)に参陣したが、義尚が翌年3月に陣没すると、その遺骸に付き従って帰京した。
延徳2年(1490)6月21日に没したとされるが、延徳3年(1491)没とする史料もある。また生年についても嘉吉2年(1442)とするものもあり、判然としない。法名は玉華院殿功林宗勲大居士。
文武に秀で、歌道をよくしたといい、『新撰菟玖波集』に「宗勲法師」として多くの句が載せられている。