山名政豊(やまな・まさとよ) 1441〜1499

山名教豊の子。山名宗全の孫。正四位下・弾正小弼・左衛門佐・右衛門督。山城・但馬・備後・安芸守護。
応仁元年(1467)9月、父・教豊が応仁の乱の最中に陣没したことを受けて、教豊の父で山名氏の惣領であった山名宗全の継嗣となった。
幕閣の有力大名であった細川勝元と山名宗全の対立が一つの要因として勃発した応仁の乱は、文明5年(1473)3月に宗全が、5月には勝元が相次いで死去すると和平の機運が高まり、宗全のあとを継いで山名氏の惣領となった政豊は翌文明6年(1474)4月に細川政元(勝元の子)と和解した。西軍の強硬派であった畠山義就大内政弘が東軍と和し、応仁の乱が終結するのは文明9年(1477)である。
文明11年(1479)閏9月、領国の因幡・伯耆国における国人領主らの叛乱を鎮定するために下国し、因幡国八東郡私部郷を基盤とする毛利(森)氏の蜂起に苦しむ因幡守護の山名豊時を支援している。
文明15年(1483)8月、応仁の乱に際して赤松政則の守護領国となっていた播磨・備前・美作国を奪還するために播磨国に侵攻し、12月に真弓峠の合戦に勝利して勢いを得て一時は3ヶ国の大部分を制圧したが、文明17年(1485)閏3月に赤松氏の反撃を受けて大敗を喫してより劣勢となり、長享2年(1488)7月に但馬国へと帰国した。
長享元年(1487)8月、9代将軍・足利義尚は近江国の六角高頼討伐(鈎の陣)のために諸大名に出陣を要請したが、政豊は先の文明15年の播磨国侵攻に際して幕府の制止を無視して強行していたため、政豊には出陣の下知は下らず、自身は出陣せずに二男の山名俊豊らが参陣したという。これは幕府からの信頼を失っていたということであり、播磨国侵攻の失敗と相まって政豊の求心力は失われていったのである。
そして帰国直後の8月には、領国内の国人領主のほとんどが政豊に背き、政豊に従うのは田公氏のみとなり、9月には政豊から離反した国人らが俊豊を新当主に擁立する動きを見せている。このときは山名氏最大級の被官である垣屋氏の旗幟が明らかでなかったためか、大きな衝突には至らなかった。
しかし明応2年(1493)3月にはついに父子による軍事抗争が勃発し、当初は俊豊方が優勢であったようだが、7月に行われた合戦で勝利したことで戦況を覆し、俊豊を備後国に敗走させた。
明応8年(1499)1月23日に病没した。享年59。法号は宗源院鎮室宗護。
政豊没後の但馬守護職は三男の山名致豊が継承した。