赤松政則(あかまつ・まさのり) 1455〜1496

赤松時勝(性存)の子。幼名は次郎法師丸。従三位・兵部少輔・左京大夫。
赤松氏の宗家は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱において山名氏らを主力とした幕府軍の追討を受けて没落していたが、赤松遺臣である石見氏らが南朝側からの神璽奪回に寄与したという功績や、管領・細川勝元の助力もあって長禄2年(1458)9月、当時4歳だった政則に赤松宗家の家督相続を許された。またこのとき、加賀半国の守護にも補任されている。
寛正6年(1465)12月に元服し、室町幕府8代将軍・足利義政から一字を与えられて政則と名乗る。
それまでの経緯から、文正2年(=応仁元年:1467)より始まる応仁の乱には東軍の細川勝元方に与し、赤松氏の旧領である播磨・備前・美作の3国の守護職を回復し、文明3年(1471)には侍所所司にも任ぜられた。また、この間に居城・播磨国置塩城の築城に着工している。
応仁の乱が終息したのちも宿敵・山名氏との反目は続いていたが、政則が文明11年(1479)8月に領国支配の不手際から幕府への出仕を差し止められたことを契機として山名氏との緊張が再燃。文明15年(1483)の福岡合戦に際しては但馬国への侵攻を目論んだが、同年12月に但馬・播磨国境付近の真弓峠で山名政豊と戦って大敗を喫した。この敗戦がもとで重臣・浦上則宗を中心とした政則追放の運動が起こり、文明16年(1484)2月に赤松氏惣領の地位から更迭された。
しかし同年9月に9代将軍・足利義尚から家督と守護職を再び安堵されると浦上則宗と和解して山名勢力にあたり、しだいに勢力を回復。長享2年(1488)7月には山名氏が播磨国における拠点としていた坂本城を陥落させて山名勢力を駆逐、やがては旧領の美作・備前国の支配体制をも確立し、赤松氏の往年の威勢を回復することに成功した。
この頃より赤松氏の本拠を坂本城から置塩城に移し、置塩屋形と称される。
延徳3年(1491)、10代将軍・足利義稙に従って近江国に出陣。明応2年(1493)にも義稙に従って河内国に出陣したが、この最中の4月22日に細川政元足利義澄を新将軍に奉じた(明応の政変)ために義稙方の武将は追討されたが、政則は政元と相婿であったため義澄方に転換した。
明応5年(1496)閏2月29日に従三位に叙されたが、その2ヶ月のちの4月25日、播磨国加西郡坂田の長円寺で病没した。享年42。法号は松泉院無等性雲。
芸術的感性豊かで、猿楽の名手であった。また、作刀の名手であったともいわれる。