福岡(ふくおか)合戦

文明15年(1483)、備前国金川(かながわ)城を拠点として備前国西域一帯を支配する松田元成と、その主君で播磨・備前・美作国の守護を兼ねる赤松政則の不和が表面化した。その理由は、元成が国政を私物化していたためという。
政則は松田氏討伐を画策したが、この動きを知った元成は備後国の山名俊豊に支援を依頼した。山名氏はかつて備前国を守護領国としていたが、応仁の乱において赤松氏に奪われたという経緯があって奪回の機を窺っていたため、松田氏からの支援要請を渡りに船とばかりに承諾したのである。
同年9月下旬、松田勢は赤松方で備前守護代・浦上則宗の属城である福岡城を攻めるべく、金川城を発向して福岡城北西の吉井付近に総勢3千余で布陣した。また、時をほぼ同じくして山名俊豊も3千余騎を動員して備後国を出陣している。

福岡城は吉井川を要害として備えた城であったうえ、堀を二重三重に掘って川水を湛えるなどしてさらに防備を固め、城主の浦上則国以下2千余騎の軍勢が籠もったため、松田勢もうかつに討って出ることができずに吉井川を挟んで対峙するばかりであった。しかし11月初旬に至って山名勢が到着して寄せ手が増強されると、城方より迎撃することも難しくなり、戦況は膠着した。
均衡を破ったのは松田・山名連合軍であった。11月下旬より吉井川の川上から松田勢、川下から山名勢が渡河して攻撃に及んだのである。併せて元成の放った間者が城に放火し、これを合図として激しい攻防戦が展開されたが、城方もよく守って連合軍を撃退したため、戦況は再び膠着したのである。

山名俊豊は備前国に出陣する一方で、父・政豊に但馬国から播磨国への侵攻を要請していた。一方の福岡城方も浦上則宗を通じて赤松政則へ増援を要請していたが、播磨国に在った政則は軍勢を北上させて但馬国へ侵攻する途を選ぶ。しかし但馬・播磨国境付近の真弓峠で山名勢に敗れ、さらにはこの戦略の誤りを見た浦上則宗が赤松氏を見限ったという情報が福岡城にまで届くと、城兵の士気が大きく低下したのである。
こうなっては城を支えることも叶わず、と見た浦上則国が翌年1月24日の夜半に城から落ち延びたことによって、4ヶ月にも及ぶ攻防の末に福岡城は陥落した。