寺沢広高(てらさわ・ひろたか) 1563〜1633

織田信長羽柴秀吉に仕えた寺沢広政の子。名を正成・広忠とも。通称は忠次郎。従四位下・志摩守。
父の跡を継いで信長に仕え、ついで羽柴秀吉の臣となる。
文禄の役に際しては、その準備としての肥前国名護屋城の普請に加わった。朝鮮半島への派兵が開始されると秀吉の側近として兵の輸送や補給、船舶運行の統制などを行った。文禄2年(1593)の秀吉の帰洛以後は、事実上名護屋城を預かっている。文禄4年(1595)には 明国の講和使節を日本に迎えるため、朝鮮に渡海した。
文禄元年(1592)から慶長7年(1602)の間は長崎奉行として、貿易の統制も行った。
文禄3年(1594)、波多親(はた・ちかし)の除封後、肥前国唐津を領した。この頃の禄高は肥前国で3万7千余、薩摩国で2万余、肥後国で4千余、総計で6万1千余石。
秀吉の没後は徳川家康に接近。慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属して岐阜城の攻略などで功を挙げた。その恩賞として慶長6年(1601)2月に肥後国天草郡で4万石を加封され、旧領と合わせると12万石の禄高となった。慶長7年(1602)に天草城を築城。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣に従軍し、天王寺での戦闘に参加している。
寛永2年(1625)、隠退して二男の堅高に家を譲った。
寛永10年(1633)4月11日に没した。71歳。法名は宗可。
広高の没後の寛永14年(1637)10月、キリシタン弾圧と農民に対する苛政に一揆が蜂起して島原の一揆勢に合流、島原の乱となる。翌年、堅高は天草領の4万石を没収され、正保4年(1647)に発狂して自刃、絶家となった。