戸田康長(とだ・やすなが) 1562〜1632

徳川家臣。ニ連木戸田氏。戸田忠重の子。母は戸田吉光の女。幼名は虎千代。通称は孫六郎。信濃国松本藩主。
永禄10年(1567)5月、父・忠重の死により6歳で徳川家康から遺跡相続を許される。同年に松平姓を賜っているが、これは他家への賜姓松平の最初である。また、家康の生母・於大(伝通院)が松平広忠との離別後に久松俊勝に嫁して生んだ松姫(家康の異父妹)を許嫁に迎えるという厚遇を受けた。
天正2年(1574)に元服して康長と改名。高天神城攻めの初陣以後、家康に従って天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦や天正18年(1590)の小田原征伐などに出陣した。
小田原征伐後に徳川氏が関東6ヶ国(伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総)に国替えとなると、康長もこれに従い、武蔵国深谷で1万石の所領を与えられた。
文禄元年(1592)に丹波守に任官。
関ヶ原の役後の慶長6年(1601)に上野国白井2万石、慶長7年(1602)に下総国古河2万石、慶長17年(1612)に常陸国笠間3万石、ついで大坂冬の陣夏の陣での戦功によって元和2年(1616)には上野国高崎5万石と累進し、翌年には信濃国松本7万石に転じた。
在封中に領内の総検地を行い、また元和9年(1623)には徳川家光の付属を命じられ、また寛永9年(1632)の徳川秀忠死後は江戸城西の丸警固を命じられたが病のため辞し、同年の12月12日、松本で没した。享年71。法名は祥雲院一運宗智。
側室の子・戸田康直が家督を継いで松本藩主となるが、翌寛永10年(1633)に播磨国明石藩に転じた。