筒井順尊(つつい・じゅんそん) 1451〜1489

大和国興福寺の官符衆徒筒井順永の長男。舜覚坊・栄藤と称す。
筒井氏の嫡流は文安5年(1448)からの畠山氏の内訌に介入して畠山政長に味方し、この畠山氏の内訌が一因となって勃発した応仁の乱においても政長が属す東軍に与し、大和国内の敵対勢力で西軍方の越智氏らと激しい抗争を繰り返した。
順尊は文明2年(1470)4月に得度(元服)したとみられ、同年には奈良に在って、山城国南域に進出した西軍方・大内政弘の軍勢と対峙するなど東軍勢力としてよく支えたが、文明7年(1475)6月には畠山政長の政敵である畠山義就と結ぶ越智・古市氏らの軍勢に敗れて没落した。
文明8年(1476)4月には父・順永の死没によって筒井氏の惣領となり、応仁の乱の終息後も故地の奪還を目指してたびたび蜂起を繰り返したが、越智氏の勢力に阻まれて退勢は覆せなかった。
長享元年(1487)頃には一時的に越智氏と和睦の動きもあったようだが、翌年には将軍・足利義尚から畠山義就と越智氏の追討を畠山政長とともに命じられている。
長享3年(=延徳元年:1489)7月22日に京都で酒損(酒の飲みすぎ)で没したという。享年39。