播磨国室津城主。浦上村宗の嫡男。浦上宗景の兄。幼名は虎満丸。通称は与四郎。掃部助。
生年は不詳であるが、天文5年(1536)には未だ幼名を名乗っていたことが知られている。
享禄4年(1531)6月の天王寺の合戦(大物崩れ)で父・村宗が主家の赤松晴政の裏切りによって討死。これを受けて浦上氏は赤松氏に抗戦したが、政宗は未だ幼少であったためか史料に名は見えず、実際に家中を差配したのは浦上国秀(村宗の弟か)であった。
浦上氏は龍野赤松氏の赤松村秀や宇野氏と結び、享禄5(=天文元)年(1532)2月までには将軍・足利義晴に誼を通じるなどして晴政に対抗したが、大勢を覆すことはできず、のちには和睦したようである。
政宗の名が見えるようになるのは天文9年(1540)に比定される赤松晴政感状で、この頃までには元服しており、実名の「政」の字は晴政から一字を拝領したものと思われる。
この頃は赤松氏の属将として活動しているが、赤松氏が尼子氏の侵攻を受けて弱体化すると自立を志向した。
天文20年(1551)前後には弟の宗景と不和になっていたことがうかがえる。経緯は不詳であるが、おそらくは政宗は備前・美作・播磨国方面に勢力を伸ばしてきた尼子氏と結び、宗景はこれに対抗したものと思われ、天文23年(1554)7月には宗景の拠城である備前国天神山城付近で政宗勢と宗景勢が抗争している。
しかし尼子氏が毛利氏との抗争において衰退に向かうと、政宗もまた劣勢を強いられ、永禄9年(1566)、子・清宗の妻に播磨国姫路城主・黒田職隆の娘を迎えて黒田氏の主家である小寺氏とも連携を深めようと図ったが、婚礼の当日に突如として赤松政秀(龍野赤松氏)の軍勢に襲撃され、政宗父子は討死したという。