宇都宮氏第16代当主・宇都宮正綱の子。別称を芳賀興綱。宇都宮氏17代・宇都宮成綱の異母弟。通称は弥四郎。左兵衛尉・左衛門督。
永正9年(1512)4月に兄の成綱が重臣の芳賀高勝(芳賀景高の子)を誅殺したことで、宇都宮氏と芳賀一族による主従抗争(宇都宮錯乱)が起こるが、永正11年(1514)に芳賀一族が降伏したのち、興綱が芳賀氏に入って当主となった。芳賀氏の専横を抑える目的であったと思われる。
永正13年(1516)11月に成綱が死没すると、その嫡男である忠綱が家督を継承したが、大永6年(1526)には忠綱と対立するようになっていた下総国結城城主・結城政朝と結び、同年12月に政朝が忠綱を下野国猿山の合戦で逐った隙を衝いて宇都宮城に入城し、宇都宮氏当主の地位を簒奪した。
この家督簒奪は結城氏など他の勢力からの働きかけではなく、興綱が主体となって策したものではあるが、興綱が家督に就くと間もなく芳賀高経や芳賀高孝らが復権していることから、芳賀一族にそそのかされたものであったらしい。
しかし、復権を果たした芳賀高経らと不和になって天文3年(1534)に幽閉されたと伝わり、天文5年(1536)8月16日に討たれたという。享年62。
天文3年8月には興綱の子・宇都宮尚綱が当主としての活動を見せているが、芳賀氏によって擁立されたと見える、いわば傀儡の当主であった。