太尾(ふとお)城の戦い:その3

近江国坂田郡の太尾城は、近江国の南北を扼す要地であった。この地をめぐって天文7年(1538)には観音寺城主・六角定頼と小谷城主・浅井亮政が(太尾城の戦い)、天文22年(1553)には定頼の子・義賢と亮政の子・久政が(太尾城の戦い:その2)が戦うが、いずれも六角方の勝利となっていた。
そして永禄4年(1561)、久政の子・長政がこの城の奪取を試みる。

永禄4年、中央政権の主導権争いに介入した六角義賢は河内国高屋城主・畠山高政と結んで細川晴之を擁立し、共通の政敵であった三好長慶を討つために畿内へ出征したが、この隙を衝いて長政は太尾城の攻撃を企図し、その大将を箕浦城主・今井定清に任じた。
これを受けた定清は、長政より派遣された援軍の将・磯野員昌と議して夜襲を行うことに決した。その手筈は7月1日の夜に伊賀衆(忍びの者)を太尾城に潜入させて火を放つことを合図とし、一挙に本丸・二の丸へと攻め入るというものであった。
そしてその日の夜、定清は島秀安・岩脇筑前守(定政か)・神田修理亮ら480ほどの兵に磯野隊200人を加え、総勢680ほどの軍勢で城の近くまで進み、兵を伏せ置いた。しかし刻限になっても城から火の手が上がらなかったため、城内に潜入した伊賀衆が失敗したものと思い、自城が近くであった今井隊が先行して引き上げ始めたのだが、その途次に太尾の方で火の手が上がったのである。
これを見た今井隊は「これぞ合図の火の手」と急いで引き返し、定清自ら先陣を切って城に馳せ向かったが、未だ布陣していた磯野隊の中を抜けようとした際、背後から槍で貫かれて落馬、そのまま絶命してしまった。
これは、磯野隊が戻ってきた今井隊を太尾城への援軍と勘違いして「迎撃」したために起こった出来事であり、その後には激しい同士討ちが展開されたともいい、結局は太尾城も落とすことはできずに寄せ手の軍勢は退却することになった。

この後の詮議で今井定清を討ったのは磯野隊に属す者であったことが判明したため、磯野員昌は7月5日付で誓詞・起請文を今井一族に宛てて送り、他意のないことを誓って謝罪したのであった。これに対し、今井一族からもまた、他意なき旨の誓詞が送られたという。