檜山(ひやま)城の戦い

出羽国の安東氏は、能代港に近い檜山安東氏と土崎港の湊安東氏の2つの系統に分かれていたが、男児のなかった湊安東堯季が天文19年(1550)頃に檜山安東舜季の子・茂季を養子に受け、堯季の没後には茂季がその家督を継承したが、永禄13年(=元亀元年:1570)に湊安東氏で内訌が起こると茂季の実兄・檜山安東愛季が鎮圧し、それを機に茂季は豊島城主に据えられ、代わって愛季が湊城に入って湊安東氏の実権をも握り、実質的に檜山・湊の両安東氏を掌握したという経緯があった。
「湊騒動」の名でも知られているこの檜山城の戦いは、天正17年(1589)2月に始まっている。これは天正15年(1587)に愛季が没したのち、家督を相続した実季がまだ幼少だったため、従兄弟で豊島城主の安東道季(別称を高季)が謀叛を起こし、同じく出羽国の戸沢氏や小野寺氏も道季方に加勢したため、出羽国北部の支配をめぐる激しい内乱となったのである。
当時の安東氏惣領の本城は愛季の築いた脇本城だったとみられるが、未だ普請が不十分であったため、実季は古城である檜山城に籠城したという。
道季らの軍勢は、籠城する実季の10倍だったといわれているが、実季は天嶮の要害である檜山城を恃みとし、3百挺の鉄砲を駆使して籠城を続け、150日余を耐え忍んだという。それでも劣勢を覆すことはできず、とうとう落城の危機が迫ったとき、由利十二頭のひとり・赤尾津氏が赴援したことで、実季はようやく危機を脱することができた。
これを契機に戦況は一変し、今度は実季が敗走する道季を追撃して湊城に追い詰めた。道季は湊城を支えきれず、戸沢氏を頼って落ち延びた。のちに道季は、安東氏と対立する南部氏に仕えたという。
翌天正18年(1590)、実季が羽柴秀吉から秋田郡のうち5万2千石余を安堵され、秋田城之介を名乗るようになった。こうして安東氏が秋田氏を称するようになった。