永禄年間初期までに信濃国のほぼ全域を支配化に収めた甲斐国の武田信玄に対し、越後国の上杉謙信は永禄4年(1560)に乾坤一擲の決戦を仕掛け、信濃国善光寺平の八幡原で双方ともに多数の死傷者を出す大激戦を展開した(川中島の合戦:第4回)。しかしこの合戦でも明確な勝敗はつかなかったために戦況を覆すには至らず、北信濃をめぐる抗争は依然として武田方が優勢を保ち続けていたのである。
こののち武田信玄は関東制覇を目論む北条氏康と提携し、上野国西部の上杉方諸城を攻略する方策に出た。永禄5年(1562)には上野国西部の国峰城、永禄6年(1563)には岩櫃城を陥落させ、永禄7年(1564)4月には信越国境にある野尻城を落とし、ついに越後国内に侵入して村々を焼き払っている。さらに信玄は同年1月には飛騨国の三木良頼・江馬輝盛らを牽制するため、重臣の山県昌景を総大将に任じて軍勢を派遣し、城下に放火させるなどの示威行動を起こさせている。
上杉軍は間もなく野尻城を奪還してはいるものの、永禄6年2月には北条軍に武蔵国松山城を攻略される(武蔵松山城の戦い)など武田・北条の陽動作戦に翻弄され、関東地方における威勢は衰退していったのである。
三木・江馬らの要請を受けた謙信は武田軍の戦線を押し戻すため7月末に信濃国へ向けて発向、29日には善光寺に着陣した。
8月3日には犀川を越えて川中島に進み、信玄との決戦に備えた。信玄も松本方面から川中島の西部へと進んだが、双方とも塩崎で対陣するのみで矛先を交えることなく2ヶ月ほどを過ごし、10月1日に帰国の途についた。
上杉軍はこの対陣中に飯山城を奪還しているが、信濃国は既に武田氏による支配が定着したために出陣することもなくなり、以後は上野国を主戦場として武田氏との抗争を続けることとなった。