細川氏阿波守護家の被官である三好元長は、細川氏京兆家(管領家)の家督争いに阿波守護家出身の細川晴元を援け、享禄4年(1531)6月に管領・細川高国を討って晴元政権の確立に大きく寄与したが、晴元に重用された木沢長政と不和になった。この長政は、河内北半国の守護・畠山義堯の家臣でありながらも晴元に重用されたために義堯とは疎遠になっていき、同年8月には義堯が長政の居城である河内国飯盛城を攻めるまでに至ったのである。このときは晴元が長政の要請に応じて軍勢を出し、義堯を撃退したようだ。
元長も晴元とはそりが合わなかったようで、享禄5年(1532)1月に三好一族の三好一秀が京都で私闘を起こした際に責を負って出家したが、出家号を海運(あるいは開運)と称しており、真摯に反省したとは見受けられないのである。
この四者において畠山義堯に元長が、木沢長政には晴元が支援するという構図ができていくのは自然の成り行きであっただろう。
同年5月、畠山義堯は三好氏の合力を得て再び飯盛城に木沢長政を包囲した。これに窮した長政が細川晴元に支援を求めると、自前では多数の軍勢を擁していなかった晴元は、被官の茨木長隆を介して浄土真宗本願寺の第10世法主・証如に助力を依頼したのである。
これを受けた証如の檄に応じた門徒(一向一揆)衆は摂津国の石山道場に集結し、6月15日に坊官の下間氏の指示で飯盛城下に押し寄せた。その勢は3万ともいわれる。この大軍に攻められた畠山・三好勢はなす術もなく壊滅し、義堯は居城の高屋城に敗走したが、この高屋城もその夜のうちに落城し、義堯は再び逃れたが2日後には捕えられて自刃させられている(飯盛城の戦い)。
三好元長は畠山義堯への合力には軍勢を派遣し、自らは出陣しなかったようだが、高屋城の落城、ついで義堯の自害を知ると、次は自分が攻められるであろうことを予見したのだろう、19日には嫡子の三好長慶を本国の阿波へと逃がしている。
そして翌20日、覚悟を決めた元長は和泉国堺の開口神社に隣接する念仏寺で切腹しようとしたが、思い止まったか拒否されたようで、これに近接する顕本寺に移った。やがて細川方の軍勢や門徒衆が顕本寺に押し寄せ、元長をはじめ塩田氏や加地氏といった近臣ら20名余りは自刃したのである。一揆方にも討死者が70名余りとあることから、一戦を交えたのちに自刃したのであろう。
また、かつて将軍候補者として元長や晴元に擁立された足利義維も顕本寺に駆けつけ、元長に連帯して切腹しようとしたが、晴元の家臣に捕えられたという。