摂津国の国人領主。伊賀守。
茨木氏は応仁の乱後に細川政元に討伐されたが、帰順した一族・弥三郎のもとで勢力を回復し、永正年間頃には春日社や興福寺の社領の代官として年貢の代納や質地入手を行い、典型的な畿内の小領主に成長した。
長隆ははじめ細川高国に属していたが、高国の政敵である細川晴元が大永7年(1527)2月の桂川の合戦で高国を破って入京すると従属し、晴元の腹心・三好元長からの抜擢を受けて晴元政権の筆頭奉行人となり、以後は若年の晴元を補佐する管領代の地位に在って畿内の実権を掌握し、晴元の意向を受けて政事全般を司る幕僚の中心人物として活躍した。
享禄4年(1531)、晴元は三好一族や木沢長政らを動員して摂津国大物浦に高国を敗死させて権勢を揺るぎないものとし(天王寺の合戦)、その翌年には木沢長政と対立した三好元長を一向一揆の助力を得て討ち滅ぼしているが(顕本寺の戦い)、この一揆の動員とは長隆の献策によるものである。だがこの後に一向一揆の矛先が領主層に向けられることとなって痛撃を被るが、今度は法華一揆の力を借りて鎮圧に成功した(天文法華一揆)。これも長隆の献策である。
さらに天文5年(1536)には京都で猛威を揮う法華一揆の弾圧を画策し、六角定頼や比叡山延暦寺(山門:天台法華宗)の兵力を利用してこれを討滅(天文法華の乱)、晴元政権の確立に大きく貢献した。
しかし天文17年(1548)より晴元政権内部で三好長慶と三好政長による権力闘争が深刻化し、これに介入した晴元が天文18年(1549)6月の摂津国江口の合戦(榎並城の戦い)で長慶に敗れ、畿内から逐われて晴元政権が崩壊すると、長隆も没落した。その後の消息は不詳である。