天文法華一揆(てんぶんほっけいっき)(山科本願寺合戦)

木沢長政は河内北半国の守護代として河内北半国守護・畠山義堯に仕えていたが、その威勢の増大とともに義堯との亀裂が深まり、享禄4年(1531)8月頃には軍事衝突を起こすまでになっていた。この闘争はいわば畠山家中の内訌であるが、長政を細川晴元が、義堯を三好元長がそれぞれ支援したため、堺幕府の実力者を巻き込む抗争に発展したのである。
この抗争は義堯・元長方が優勢のうちに進めたが、晴元の被官・茨木長隆は縁者を介して浄土真宗本願寺の第10世法主・証如に助力を依頼した。証如は畿内の一向一揆(浄土真宗門徒の集団)を動員して長政を支援し、享禄5年(=天文元年:1532)6月17日には河内国にて畠山義堯を、20日には和泉国堺の顕本寺に三好元長を討った(飯盛城の戦い顕本寺の戦い)。
この戦いにおいて一向一揆勢力は長政・晴元方の勝利に大きく寄与する原動力となったが、この戦いを通じて結束した自分たちの強大さを自覚した一向一揆は、日頃より搾取を受けている領主層へと矛先を向けるようになったのである。戦勝の勢いに乗じて気炎を吐く一向一揆の猛威は7月17日には大和国奈良の興福寺を襲撃し、8月5日には摂津国池田城を包囲するなど、隣国にまで広がっていった。
法主である証如は武家と事を構えるのは得策ではないと考えていたようだが、暴徒と化した宗徒らを抑制することができず、ついにはその指揮を執ることを意に決したのである。

この思いもよらぬ事態の急展開に直面した晴元や茨木長隆は困惑したが、やがて一計を講じた。近江国の守護大名・六角定頼や比叡山宗徒に支援を要請するとともに、当時京都に勢力を張っていた法華一揆(日蓮宗徒の集団)を扇動して一向一揆に当たらせることで攻撃の矛先を逸らせようと目論んだのである。
8月7日に柳本信堯らは日蓮宗本圀寺に集合、山村政次も京の日蓮宗徒を率いて10日に京の一向一揆拠点を焼き払い、六角定頼も12日には大津顕証寺を焼き討ちにした。そして23日には3〜4万ともいわれる晴元・六角・法華宗徒ら反一向一揆連合の軍勢が本願寺の総本山である山科本願寺を包囲し、翌24日には火を放って総攻撃をかけた。これによって蓮如の建立以来『その広大な様は仏国の如し』と言われるまでに繁栄を極めた山科本願寺とその寺内町は一宇も残さずに全焼したという。

しかし、総本山を失った一向一揆は屈するどころかさらに激しい闘志を燃やし、大坂の石山道場を本拠として徹底抗戦を続けた(この石山道場がのちの石山本願寺となる)。
この反一向一揆連合と一向一揆の戦いは激化し、12月になると晴元に属する摂津国衆らが摂津国の上郡と下郡への同時侵攻作戦を展開し、一向一揆の拠点である道場を攻め立てたため、その一帯は焦土と化したという。
しかし天文2年(1533)になると状況は一転、一揆勢は勢力を盛り返して晴元の拠る堺に進撃し、2月には晴元や茨木長隆を淡路島に逐った。晴元は4月になると態勢を立て直して摂津国池田城に入城するに至るが、この晴元不在の2月から4月までの間、幕府機能は停止し、まさに無政府状態であった。この間の京都は町衆を中心とした法華宗徒が警察権を握り、浄土真宗の僧侶を捕えて処刑するなど、その威勢を大いに揮うところとなったのである。

畿内に復帰した晴元が池田城から要害である摂津国芥川城に移ると、淀川を挟んで石山道場に立て籠もる一向一揆と対峙する形となって戦線は膠着するが、三好長慶の斡旋によって同年6月20日に幕府と本願寺の和議が成立した。
なお、この和議は天文4年(1535)9月2日に(興正寺) 蓮秀の仲介によって成立したとする説もある。