江口(えぐち)の合戦(榎並(えなみ)城の戦い)

三好政長は三好氏の惣領・三好元長に従い、元長が大永7年(1527)に足利義維細川晴元を擁して和泉国堺に新政権(いわゆる堺幕府)を発足させるに際して軍事的中核を担い、いわば堺幕府樹立の功労者であった。その堺幕府から元長が離脱した大永8年(=享禄元年:1528)以後は三好一族の長老格として晴元の参謀格となり、一貫して晴元に付き従っている。
元長死後の三好氏惣領はその嫡男・三好長慶が継承し、天文3年(1534)より幕府に出仕しているが、長慶と政長は不仲であった。
長慶と政長の対立は根深い。長慶の父・元長は享禄5年(=天文元年:1532)6月に畠山義堯に与して木沢長政・一向一揆の連合軍と戦って敗死したが(飯盛城の戦い顕本寺の戦い)、この抗争に際して晴元は木沢陣営を支援していたため、長慶にとって晴元および晴元に連なる政長は仇敵であった。また天文8年(1539)には幕府での声望を高めた長慶が、河内国十七箇所の代官職を要求して晴元に拒絶されているが、ここに政長の影を見て取ったのである。因みにこの地は政長の属城・河内国榎並城(別称:十七箇所城)の勢力域となっている。
長慶・政長の主君である晴元はこの両者の対立を気に病み、政長に隠居を勧めた。これを受けて政長は天文13年(1544)5月に隠居して家督を子・政勝に譲りはしたが依然として帷幕に在り、なんら解決には結びつかなかったのである。
天文17年(1548)8月、長慶はついに政長の排除を晴元に求めた。政長を重用する晴元がこれを黙殺すると長慶は晴元をも敵と見なし、同年10月下旬には晴元と細川京兆家の家督を争っていた細川氏綱や、岳父で氏綱を擁立する河内国南半国の守護代・遊佐長教と結んで実力行使に及ぶこととしたのである。
この闘争は三好家中における内訌であったが、幕府の要職にある長慶と政長の対立は幕府のみならず、畿内近隣の諸領主をも巻き込むこととなった。

長慶は弟・十河一存を先鋒として、居城である摂津国越水城から三好政勝の籠もる榎並城に向かわせた。この頃には摂津国の国人領主らの大半は長慶に与するようになっており、たちまちのうちに榎並城は孤立してしまったのである。これに対して政長は、晴元を介して近江守護・六角定頼や和泉守護・細川元常らの支援を取り付けたが、敵中に孤立する榎並城に援兵を派遣することすらままならない状態であった。
小規模ながらも要害に護られた榎並城は天文18年(1549)が明けても長慶勢の攻囲をよく凌いでいたが、外部からの支援が無ければいつまでも支えきれるものでもないために援軍の派遣が急務となっており、政長は丹波国方面から迂回して1月下旬には池田へと出陣した。晴元陣営に属す伊丹城主・伊丹親興との合流を図った動きである。
長慶陣営はこれに対応するため、2月下旬頃より長慶は伊丹城を牽制するため尼崎に、長教は榎並城を臨む河内国十七箇所に布陣させた。この後、政長は榎並城に程近い柴島城に兵を入れたが、長慶勢はこれを数日を経ずして陥落させ、そのまま榎並城の包囲に加わったのである。
一方、細川晴元は政長支援軍の編成を急いでいたが、恃みとしていた六角定頼がなかなか腰を上げようとしなかったため、未だ援兵を派遣できずにいた。それでも4月になってようやく定頼から出兵の確約を取り付けると、先の政長と同様に丹波国、摂津国の北域を経由して同月26日に一庫城(別称:塩川城)へと入ったのである。
待望の援軍到来で作戦の幅が広がった政長方は、摂津国尼崎の富松城や東域の芥川城を攻めるなどして、榎並城包囲軍を減じるための陽動作戦を展開した。これは図に当たり、長慶方の武将・三好長逸が芥川城を救援するために軍勢を動かした間隙を衝いて5月5日に三宅城を奪取することに成功、28日には晴元を迎えてここを前線拠点とした。
しかし、長慶は本陣の中嶋城(別称:堀城)から榎並城を窺う構えを崩さなかったのである。

そして6月になり、榎並城が包囲を受けて8ヶ月になろうとしていた。この頃には六角氏の援兵が出陣する手筈になっていたが、政長は待ちきれずに11日に三宅城を発向して神崎川を渡り、江口に軍勢を進めた。江口は神崎川と淀川に囲まれ、軍勢を布陣させれば容易に侵入を許さない要害の地であり、政長はここを押さえることで中嶋城と榎並城の分断を図ったのである。
しかし17日、長慶はこれを逆手に取って安宅冬康・十河一存の軍勢を送り、三宅城と江口の中間にあたる別府を制圧した。これによって江口に布陣した政長の軍勢は、川に囲まれた地に孤立してしまったのである。
まさに好機であった。しかし長慶はここにきて政長を討つことを躊躇し、踏ん切りのつかぬままに数日を空費したという。
一方の政長も、六角勢の到着を待ちわびていた。逆に長慶陣営では六角勢の到着を危惧する声も上がるようになり、一説には決断を下そうとしない長慶を無視して十河一存が独断で江口突入を決めたともいわれる。
いずれにしても6月24日、十河隊が神崎川を渡って江口に攻めかかり、士気の上がらぬ政長軍を壊滅に追い込んだ。政長軍の死者は数百人といわれ、政長も榎並城に敗走するところを遊佐長教の足軽に討ち取られたとも、淀川で水死したともいう。敗残兵は降伏あるいは逃亡した。
この江口の合戦の趨勢が決すると、榎並城にあった政勝は逐電し、三宅城の晴元は山城国嵯峨まで逃亡、京都まで来ていた六角氏の本隊も本国へ引き上げ、長慶方の勝利に帰した。
この直後、山城国に逃げ戻った晴元は長慶の追撃を恐れて足利義晴義輝父子を奉じて近江国まで退避、ここに晴元政権は瓦解したのである。