伊丹親興(いたみ・ちかおき) ?〜1574

摂津国の国人領主。伊丹親永の子。兵庫頭・大和守。摂津国伊丹城主。
はじめ管領・細川晴元に属し、天文17年(1548)から翌年にかけての榎並城の戦い(江口の合戦)でも一貫して晴元陣営にあったが、晴元が失脚して三好長慶が畿内の実権を握ると三好氏に従属した。
永禄11年(1568)に尾張国の織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、信長・義昭に呼応して三好氏を攻めた。以後は幕臣として信長に従い、和田惟政・池田勝正と共に摂津国の守護に取り立てられ、伊丹に3万貫の所領を与えられた。
永禄12年(1569)の本圀寺の戦いにおいては負傷しながらも三好勢を打ち崩して敗走させ、勝利を収めている。
その後も信長に従って但馬国の山名祐豊や播磨国の浦上宗景を攻め、元亀元年(1570)8月には、大坂天王寺で三好三人衆と再び戦っている。
しかし天正元年(1573)頃から義昭と信長が不和になると親興も信長と対立するようになり、天正2年(1574)11月15日、信長の命を受けた荒木村重の軍勢に伊丹城を攻められて城は落城、自害した。