永禄4年(1561)5月11日、美濃国稲葉山城主の斎藤義龍が没し、そのあとを子の龍興が継いだ。龍興はまだ14歳という若年であることと、その凡庸さから家臣団の統制が崩れ始めたのである。
これを好機とみた尾張国の織田信長は、義龍死去の翌々日の13日、木曽川を越して美濃国に兵を送り込んだ。龍興は家臣の長井衛安・日比野清実らに防戦を命じ、安八郡森辺のあたりで合戦となった。
合戦は翌14日、雨の中で行われ、結果として斎藤方の長井・日比野の両将が討死し、織田方の大勝となった。斎藤勢の死者は170人ほどだったという。
この戦勝で信長は美濃への橋頭堡ともいうべき墨俣周辺を勢力下に収めた。
なお、織田家家臣・前田利家はそれまで蟄居を命じられていたが、この合戦に無断で参陣、戦功を挙げたので赦免された。
この森辺の合戦で勝利した信長は墨俣砦を奪い、そこを本陣とした。そのまま侵攻を続ける構えである。
そこで龍興は5月23日に稲葉山城から軍勢を繰り出し、稲葉山城の西方の十四条に布陣した。信長も墨俣砦から打って出て十四条で合戦となったが、敗戦を喫した。この戦いで一族の織田信益が討たれている。
織田勢は軽海まで後退し、斎藤勢もそれを追撃したため、夜になってからここでも戦闘があったが、闇も深くなったため斎藤勢が稲葉山城に兵を退いた。
信長は翌朝まで軽海に留まったがのちに墨俣に戻り、さらには清洲城に帰城した。