斎藤龍興(さいとう・たつおき) 1548〜1573

斎藤義龍の庶子。通称は喜太郎。右衛門大夫。美濃国稲葉山城主。
永禄4年(1561)に父・義龍の死によって家督を相続する。
永禄7年(1564)2月6日、家臣の竹中重治(半兵衛)によって突如、居城の稲葉山城を乗っ取られる。稲葉山城は同年8月に返却されるが、この一件により斎藤家臣団の結束の弱体が暴露され、そこを隣国・尾張の織田信長につけこまれることとなった。
永禄10年(1567)、稲葉一鉄氏家卜全安藤守就ら美濃三人衆をはじめとする家臣の相次ぐ離反によって戦力を失い、三人衆を内応させた信長によって稲葉山城を逐われた(稲葉山城の戦い:その2)。これにより美濃国の戦国大名・斎藤氏は滅亡した。
以後は伊勢国長島、畿内へと移り、一向一揆や三好三人衆と結んで信長に対抗した。さらには近江国の浅井長政を経て越前国の朝倉義景を頼って執拗に信長に対抗したが、朝倉氏滅亡に先立つ天正元年(1573)10月4日、越前国刀禰坂の合戦で敗死した。26歳。法号瑞雲院龍貞居士。