天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀は主君・織田信長を京都本能寺に討ち滅ぼした(本能寺の変)のち、直ちにその軍勢を二条御所へと向けた。
光秀の軍勢が本能寺を囲んでいるとき、信長の嫡子・信忠は同じく京都の妙覚寺におり、京都所司代・村井貞勝からの急報で光秀謀叛を知った。信忠は同宿の手勢5百を率いて本能寺の信長と合流し、光秀と一戦を交えるために兵を出そうとしたが、多数の敵兵に遮られて本能寺に入ることができず、妙覚寺よりは防ぎやすい二条御所に入って戦うことを決めたのである。信忠は手勢を率いて二条御所に移動、そこへ同じく京都に宿していながら本能寺の救出に間に合わなかった信長の手勢5百が駆けつけてきた。
光秀軍が本能寺の囲みを解いて二条御所へと向かったのが午前8時頃という。当時、二条御所には誠仁親王がいたので、信忠は光秀に、誠仁親王を避難させるための一時休戦を要請した。光秀もそれを了承したので、親王とその一族は両軍勢の見守る中、二条御所から退去した。光秀勢が二条御所に総攻撃をかけたのはその直後のことだったという。
圧倒的多数の兵力を擁する光秀勢に対し、信忠勢も奮戦した。決死の覚悟で門から討って出て戦い、三度までも光秀勢を押し戻したという。しかしやがては数を頼む光秀勢に押し込まれ、御殿にまで追い詰められた。信忠は自ら刀を取って斬り結び、信忠を守る兵たちも奮戦ぶりをここでも見せるが、御所に隣接する近衛前久邸の屋根から光秀勢に弓や鉄砲を撃ちかけられるようになると勝敗は決した。軍装を整えることもできなかった信忠勢にはこれを防ぐ手立てがなく、見る間に兵力を削がれていったのである。ついに信忠は観念し、自刃した。午前9時頃のことという。
織田信長・信忠父子を討ち、ここに明智光秀の謀叛は成功したのである。