享徳の乱や長尾景春の乱において山内上杉氏との共闘で武名を挙げた扇谷上杉定正であったが、文明18年(1486)7月に家宰・太田道灌を殺害したことを端緒として山内上杉顕定との確執が深まっていき、この両者は長享元年(1487)11月に至って戦端を開くこととなり、長享の乱が始まる。
緒戦こそ扇谷上杉氏が優勢で、延徳2年(1490)12月には和睦が成立したようだが、明応3年(1494)7月に和は破れて抗争が再開された。
顕定は扇谷上杉領に軍勢を進め、8月に武蔵国の関戸要害を、9月には相模国の玉縄要害を攻略して小机城代の矢野右馬助を討死させた。矢野氏は扇谷上杉氏の重臣で、定正にとっては手痛い損失となった。
また8月下旬には道灌亡きあと扇谷上杉家中最大の被官であった大森氏頼(寄栖庵)が没しており、9月には被官の三浦時高が同族の三浦義同(道寸)に討たれるなど、威勢の衰退は覆うべくもなかった。
こうした退勢の挽回を図るため、定正は台頭著しい北条早雲(伊勢宗瑞)に援軍を求めた。伊豆国の韮山城を足掛かりとして勢力の拡大を企図する早雲もこれに応じ、軍勢を率いて着陣した早雲と定正は9月28日に武蔵国久米川の陣で初めて会見したのである。
この後、山内上杉勢との決戦のために高見原に進軍した定正であったが、10月5日に急死した。荒川を挟んでの対陣中に病死したとも、荒川を渡ろうとして落馬し、それが原因となって死去したともいわれる。
いずれにしても、総大将である定正の死去によって総崩れとなった扇谷上杉勢は武蔵国河越城へと敗走し、北条勢も韮山城へと兵を退かせたのである。