天正3年(1575)5月の三河国長篠の合戦で織田信長とともに武田勝頼の軍勢を大いに打ち破った徳川家康は、その直後より反転攻勢に移り、同年6月には犬居谷の入り口にあたる光明城(光明城の戦い)を、8月には諏訪原城(諏訪原城の戦い)、12月には二俣城(二俣城の戦い:その2)を攻略した(いずれも遠江国)。
次の標的は遠江国の要衝・高天神城であったが、家康はその前段として、武田方から見れば高天神城への中継点となる駿河国田中城の攻略を企図したのである。
武田方にとっても高天神城は徳川方を圧迫するための重要な城であり、この高天神城を維持するためにも田中城は確保しておかなければならない拠点であった。徳川軍は天正4年(1576)8月に駿河国に侵入して山西で苅田を行ったというが、田中城を意識したものであろう。また天正5年(1577)9月にも徳川軍は東へ向けて軍勢を動かしており、これを知った武田勝頼は自ら甲府から田中城に進軍する意向を示しているが、徳川軍は武田軍の接近を知ると、軍勢を退かせている。
天正6年(1578)3月3日、家康は出陣の陣触れを行い、早くも8日には遠江・駿河の国境でもある大井川沿いに布陣している。そして9日、徳川軍は大井川を渡河して駿河国に侵入、そのまま田中城への攻撃に取りかかったのである。
徳川軍は猛攻を加えて外曲輪を破って城内に突入した。しかし城の守備兵の必死の防戦を受けて攻略するには至らず、翌10日には攻略を断念して牧野原城(諏訪原城から改称)まで軍勢を退かせたのであった。
家康はこの後に遠江国の小山城を攻めているが、これは本腰を入れたものでなかったようである。さらに同年8月から9月にかけて、武田勝頼が軍勢を率いて越後国に赴いている隙を衝いて田中城や小山城を圧迫し、苅田など行っている。このときは示威行動、あるいは両城を弱体化させることが目的であったようだ。
徳川軍はこの後に牧野原城の普請を行っていることから、これを進めるための牽制であったとも考えられることからすると、この3月の田中城攻撃も同様に武田方を牽制する目的であった可能性がある。