天文15年(1546)5月3日、武田晴信は、信濃国佐久郡の内山城に拠る大井貞清を討伐するため、甲府を出発した。貞清の父・大井貞隆は天文12年(1543)9月に長窪城を攻められて武田氏に捕えられたが(長窪城の戦い)、貞清は内山城に拠って反武田の将士を糾合し、抵抗を続けていたのである。
内山城は、その北に位置する志賀城とともに反武田勢力で、信濃国佐久郡から上野国甘楽郡へと通じる要路を抑え、その背後は関東管領・山内上杉憲政の被官である高田憲頼の所領であった。当時の武田氏と山内上杉氏は直接の対立関係にはなかったが、天文10年(1541)5月、晴信の父である武田信虎らに逐われた海野棟綱が憲政を頼って上野国に逃れ、その2ヶ月後に憲政が海野氏の旧領回復のため武田領(海野氏旧領)に侵攻した。このとき武田氏は出兵しなかったため直接の抗争は生じなかったが、互いに警戒を要する相手として見ていたであろう。
この先、武田氏が信濃国に深く侵攻するためにも、佐久郡を抑えて山内上杉氏を牽制する必要があったのである。
武田軍は佐久郡海の口を経て6日には前山城へ着城し、8日巳刻に先発隊が内山城へ向かい、翌9日には本隊も合流して攻撃を開始した。10日には水の手を取って城攻めを優位にし、14日には本丸を除いて他を占領した。
断崖を要害とする内山城はなおも持ちこたえていたが、5月20日に至って開城し、貞清は野沢へと落ち延びていったのである。
晴信は同年7月に内山城の新城主として、守備の名手として名高い上原伊賀守虎満(のちの小山田昌辰)を任じて防衛にあたらせ、翌年4月16日には大井貞清父子(貞清と父・貞隆か)のもとへ側近・駒井政武(高白斎)を使者として遣わし、出仕を促した。内山籠城戦での手腕を買っての事であろう。これを受けた父子は5月4日に甲府に赴き、6日に出仕を果たしている。