甲斐国の武田氏と駿河・遠江国の今川氏の抗争は大永6年(1526)の今川氏親の死没を契機として小康状態にあったが、今川氏と同盟関係にあった北条氏と武田氏の対立は依然として続いていた。
武田信虎は天文元年(1532)に甲斐国の統一を果たすと、天文4年(1535)7月5日に今川氏の領国である駿河国に向けて出陣。この報を得た今川氏輝も、武田勢を迎撃するために27日に駿府を出立したが、これに際して相模国の北条氏綱に支援を要請している。武田勢と今川勢は甲斐・駿河国境の万沢口で対峙し、8月19日に合戦となった(万沢口の合戦)。
その一方、今川氏からの要請を受けた北条氏綱・氏康父子は両面作戦を展開するべく8月16日に小田原を出陣、22日に2万4千ともいわれる大軍を率いて甲斐国都留郡に侵攻した。
これに対して武田勢は都留郡の領主・小山田(越中守)信有と信虎の弟・勝沼信友らが2千の兵力で迎え撃ち、甲斐・駿河・相模の国境に近い山中で交戦したが、勝沼信友をはじめとして小山田有誠・小林左京亮ら数百の将兵を失うという散々な大敗を喫したのである。
北条勢はその日のうちに上吉田、翌日には下吉田を焼き討ちにし、この北条勢の侵攻に窮した信虎であったが、武田氏と同盟関係にあった武蔵国の扇谷上杉朝興の軍勢が北条氏の本拠である小田原へと向けて出陣したことを知った氏綱が24日に撤兵したため、窮地を免れたのである。