淀藤岡(よどふじおか)城の戦い

永正元年(1504)9月、細川京兆家(管領家)当主・細川政元の被官で摂津守護代の地位に在った薬師寺元一が山城国の淀の藤岡城に拠り、政元を廃してその養子のうちのひとりである細川澄元を擁立すべく挙兵した。
政元は修験道に傾倒するあまりに妻帯せず、ゆえに実子がなかったので養子を迎えることになったが、細川氏阿波守護家の細川成之の孫である澄元を迎えるにあたって文亀3年(1503)に元一がその使者として赴いたという経緯もあり、元一は澄元への家督継承を確実なものとするために挙兵に及んだのであろう。元一が挙兵するに際して淀藤岡城に拠った経緯は詳らかでないが、交通や軍事の要地である淀の防衛を強化するために派遣されて入城したのを機に謀叛を企てたものと思われる。
この元一の企てが露顕したのが9月4日であった。また、元一には西岡の武士・四宮長能も与同し、西岡衆を率いて神足(こうたり)城に拠って兵を挙げた。
この事態を受けて政元は6日に討伐軍を派遣したが、翌7日に京都で土一揆が蜂起した。この土一揆は元一と連絡があったわけではなく、元一挙兵の混乱に揺れる情勢に乗じて蜂起したもののようであるが、いずれにしても幕府はこの土一揆への対応として徳政令を出すことに一決し、その旨が11日に発布された。さらにその一方で14日には政元被官の香西元長が、下京や京都近郊の村々の住民に半済、すなわち税の半額を免除するという条件で、元一討伐軍への従軍を募ったのである。
16日には神足城は陥落しており、敗残の西岡衆は淀藤岡城に逃げ込んだようであるが、17日に土一揆や住民を加えた総勢千余人が淀へ向けて出陣、19日には淀藤岡城を陥落させた。四宮長能は城で自殺したといい、薬師寺元一は捕えられて京都に護送され、翌20日に自害させられた。

細川政元の継嗣問題を名分として挙兵した薬師寺元一は鎮圧されたが、皮肉なことにもこの3年後の永正4年(1507)6月には香西元長や元一の弟である薬師寺長忠が、政元を暗殺して細川澄之を擁立するのである。