美濃国の国主・斎藤義龍は弘治年間(1555〜1558)頃に菩提寺の開創を発願し、京都妙心寺の長老である亀年禅愉に相談したようである。これを受けた亀年は、弟子の別伝宗亀座元という僧を指名して美濃国へと派遣した。義龍はこの別伝と永禄3年(1560)9月に師檀の約束を取り交わして開山和尚となし、自らも亀年より金襴の袈裟を贈られ、義龍の居城・稲葉山城下の一角に少林山伝灯護国寺が創建されたのである。
妙心寺には東海・龍泉・聖沢・霊雲の4つの分派があり、亀年や別伝の属す霊雲派は美濃国における勢力は弱小であったが、義龍は同年12月24日に美濃国の禅宗寺院の寺統権を伝灯寺が行うこととするように布告したのである。しかし、それまでこの地方の寺統権を有していた瑞龍寺(東海派)が反発し、それを受けるかたちで長良崇福寺の快川紹喜(東海派)は、永禄4年(1561)1月5日に瑞龍寺でこの件について評議することを3派の諸寺院に通達したのである。
しかし、この評議において、大龍寺の龍谷(東海派)だけは別伝を支持して他の者と同調しなかったため、義龍からの布告の撤回を求める決議ができずに散会するに至った。
快川としては妙心寺一派の結束ができない以上は打つ手がなく、2月8日に至って美濃国から退去して尾張国犬山の瑞泉寺に入ったが、瑞龍寺の速伝宗販(東海派)、少林寺の慧雲宗智(聖沢派)、梅龍寺の天猷玄晃(龍泉派)らも快川に同調して10日に出国して瑞泉寺に入るという事態となり、これが義龍のもとへと知らされたのである。
これに驚いた義龍は翌11日に、あの(12月の)布告は伝灯寺が勝手に出したものだから速やかに寺に戻るようにと伝えさせ、これを受けた快川らは評議を行い、義龍の本意ではないのなら別伝と龍谷を僧籍から外すことを本寺の妙心寺に訴えることとし、16日に帰国して各々の寺に戻っていったのである。
しかし、これに対して義龍は2月26日付で逆に快川の処罰を妙心寺に要求するなどして、別伝らを擁護する姿勢を変えなかったため、快川や速伝らは2月28日の夜、再び瑞泉寺へ出奔した。翌日にこの報告を受けた寺奉行は、義龍の耳には入れないでおくから至急戻るように、と帰国を促したが快川らは聞き入れず、2月30日付で「義龍は一国の主に過ぎない。私共は三界(現在・過去・未来)の師であって、三界の広きことは、一国など狭すぎて比較にならない。私共は帰らない」との返書を送ったのである。
そして3月2日には妙心寺から別伝を除籍とする旨の回答があり、霊雲派の本拠である京都龍安寺からも、霊雲派から除籍することが伝えられた。快川はさらに龍谷を東海派から除籍するよう妙心寺に申し入れている。
これによって体面を潰された義龍は朝廷や幕府に働きかけ、それが功を奏して4月24日付で「伝灯護国寺を天皇の勅願寺となし、紫衣勅許の寺として京都南禅寺と同格になす」という綸旨が出され、ついで将軍・足利義輝からも、これを喜悦とする御内書が出される状況となった。
美濃国内の門派間の競合が国主や朝廷・幕府をも巻き込んで泥沼化し、ついには本山の妙心寺さえも存亡の危機に立たされることになったのである。
しかし5月11日、義龍が急死。その2日後の13日には尾張国の織田信長が美濃国へと侵攻し、身の危険を感じてのことか別伝・龍谷らが逃走したことにより、伝灯護国寺の問題はうやむやとなってしまったようである。
無人となった伝灯護国寺は翌永禄5年(1562)3月2日に何者かの放火によって全焼した。ついで3月18日、夜陰に紛れて妙心寺の建物に火をつけようとしていた龍谷が発見され、門前で打ち殺されたという。
これらのことを見たり聞いたりした斎藤氏家臣で奉行の安藤守就・永延弘就は、「去年以来の龍谷の所行は悪行重罪と見て、将軍にもこの旨を申し送る」と妙心寺へ報じており、ついには美濃国主側(そのときは義龍の子・斎藤龍興)が別伝の事件を「悪逆であった」と認めるに至ったのである。