山城国一揆(やましろのくにいっき)

文明17年(1485)12月に、山城国南域の綴喜・相楽の2郡で起こった国一揆。
応仁の乱の終息後もその主要な原因のひとつとされる畠山義就畠山政長の内訌は未だ沈静化せず、山城国の南域においても、文明17年10月より宇治川を挟んでの両陣営の対陣が60日にも及んでいたが、このような状況下の同年12月11日に山城国の国人領主や民衆たちが集会し、両畠山勢に撤退を要求することが談合された。
一揆を結んだ国人領主らは、要求に応じない場合には攻撃も辞さないとの強硬な態度で両畠山勢との交渉に臨み、同月17日に両畠山勢は山城国から撤兵するに至った。とくに、畠山義就方は撤兵するに際し、今後は入国しない旨を誓約した「去状」を一揆に出したことが知られている。

山城国人らが一揆を結んで決起するに至った理由としては、両畠山勢の軍事行動による寺社や民家への放火や狼藉濫妨などのために地域の荒廃が進み、これに対するための自衛措置であったと思われる。また、この集会で申し合わせた内容は、先述の「両畠山方の山城国への入国禁止(撤退要求)」のほか「寺社本所領の回復」「新関の撤廃」の3項目に集約されるものであった。『狛野庄加地子方納帳』に前出の2項目を併せて「諸本所領御直務たるべし、ことさら大和以下の他国の輩、代官としてこれを入立つべからず云々、成物(年貢)においては、荘民ら無沙汰致すべからず」としており、他国衆の干渉や介入を排除して、山城国人による自治を目指す姿勢が窺われるのである。
この一揆は文明18年(1486)2月13日や12月15日にも会合を開いており、『惣国』と呼ばれる行政機関が中心となって「国中の掟法」(決め事)や『年行事』や『月行事』と呼ばれる職務担当者を決めるなど、自治体制を調えていったとみられる。

その一方で幕府は文明18年5月に伊勢貞陸を山城守護に任じるが、一揆の管轄する山城国南域へ支配を及ぼすことができずにおり、貞陸ののちにも別の者が守護に任じられているが、いずれも同様であった。この間の幕府による山城国南域への干渉は消極的で、その統治は『惣国』によって執行されることが黙認されていたようである。
明応2年(1493)に入って将軍・足利義稙畠山義豊を討伐するために河内国への出陣を決めると、山城国の全域より軍勢の調達が図られ、一揆の『惣国』もこれに応じて軍勢を派遣したようである。
しかし同年4月、細川政元が義稙不在の京都で足利義澄を新将軍に擁立(明応の政変)したことを機に、幕府の山城国南域に対する姿勢が一変する。同年3月に再び山城守護に補任されていた伊勢貞陸が強硬な態度で山城国全域の支配に臨むようになると一揆は反発を強めたが、幕府も伊勢氏を後押しし、同年8月に山城国の諸侍中に宛てて守護の下知に応じることを命じ、従わない者は処罰する旨を通告したのである。
これを受けて一揆は同月18日に談合して伊勢貞陸の山城国支配を認め、その後に伊勢氏の支配に抵抗する動きも見られるものの、概して8年間に亘った一揆による山城国南域の自治体制はここに解体するに至ったのである。