(1) |
良く晴れた朝のことだった。 「おい観たか? 昨日あいつテレビのインタビュー受け取ったぞ」 「おぉ観た観た。カッコ良かったよなぁ」 ボクの聴覚はその会話を吸い込む事に夢中になっている。 「ホンマにすごいよな、あいつ。観ててオレ感動したもん」 朝のコンビニエンスストアは賑やかだった。 とは言え日曜日である今日は、平日とはまた別種の喧騒で店内が包まれている。休日特有の、のんびりとした騒がしさである。 平日ならば、日々のレースを乗り切る為の激しさ(これから始まるレースへ向けて給油していくような高速の購買勢)があるが、本日は至って穏やかで、軽自動車で街乗りクルージングか、行楽地へ散策へ向かう準備をしているような人々くらいしか居ない。 「何がスゴイって、ジム出来るまで独りで練習しとった、ってのがなぁ……」雑誌のコーナーに居る若者の内、背の高い方が言った。 「そうそう! ガレージでやろ!? 仕事から帰って、それから黙々と筋トレやらシャドーやっとったって」 「オレらにはとてもじゃないけど真似でけへんわな」 「練習の事か? ボクシングやる事自体か?」小柄な青年は笑む。 「両方や」馬力のありそうな体躯を冗談めかして揺らした。 やれないからやらないんじゃない、やりたくないからやらないのだ、と、ボクは心中で反問した。 その反問は、誰に向けてのものだったのか。 ―――――陳列されている雑誌の表紙を斜め読みして、思考を意識的に切り換えてやる。 彼等が話していたボクサーとは、ボクの友人の事である。 ――――友人……軽々しく使った文言だが、もう二年も会ってはいないし、連絡も取っていない。 ボクの方が一方的に、雑誌や新聞に載る彼の活躍を旺盛に読み込んでいるくらいのものだった。 人間関係とは通常、相互で作るものだが、ボクと彼に関しては一方通行極まりない。これでは鏡面関係だ。 件の彼はどうやら強いらしい。西日本の新人王の座を掴んだと聞いたとき、ボクは自分のことのように(これがまさに鏡面関係だ、即ち、鏡の向こう居る彼を己と同一化した)喜んだ。 そして、祝いの品でも持っていこうかと思案したのだが、相手はプロボクサーだ。しかもミドルからウェルターに転向している。食べ物関係はまずいだろう、かといって花を贈るには色がありすぎて気味が悪い。 なにせ、もう二年も会っていないのだから。 すわ敵情視察、という訳でもなかったが、まずは本人に会うのが先決だろうと思った。それが昨夜の一件に通ずる。 ジムは田舎町の更に僻地にあった。 建設されて間もないというのに、何故か築数十年を思わせる風合いを湛えていたのが印象的だった。 恐る恐る扉を開けば、広がる光景を目の辺りにすれば、感得するのは別世界であるという事ばかりである。 誰もが盛んに、何かに――何かを打ち込んでいた。 ダイエット目的であろう婦女子方でも、それは同じだった。 ――――うすぼんやり、戦うための場所なのだな、と――――。 気圧されるぬように意を固め中へ入ると、掛かっていた重圧感が更に増すのを感じた。これは、ボクの心の問題だったのだろう。 そして。 ――――二年前の面影もなく、痩せ細った彼は、眼もさながら、まるで狼のようだった。 それを見つめる犬たちも、また、ぎらついていた。 田舎町である当地では、少しでも目立てば羨望か嫉妬を漏れなく頂ける。天が彼に割り振ったモノは、どうやら羨望の眼差しのようだった。 地元から初めてプロボクサーが出た、という事で彼は広く知名されている。ジムでの練習生も、彼の技を学ぼうとしていたのか、サンドバックを鳴らしながらもチラチラと彼の姿を観ていた。 しかしながらジムは小さい。彼とまともにスパーリングが出来る相手はいないそうなのだ。よって、時折遠征に出かける。 ――――しかしながらジムは小さい…………当たり前だ。 彼がボクシングを始めた頃、この町にジムは無かったのだ。 彼は車のガレージで独学によってボクシングを学び始めた。ずっと独りで、参考書やガイドブックを観ながら、ずっと、独りで。 ――ボクは、心に掛けたガレージの鍵を何処に忘れたのだろう。 ――――瞬時に思考を切り換える。 彼は己の真摯な態度で人心を動かし、町の有力者(有り体に言えば富裕人であり、顔も広い人間)をも動かし、ボクシングジムの設立に漕ぎ着けたのだった。 彼にはそんな背景がある。だからこそ求心力があるのだ。 ジムの高校生などは皆、口を揃えてこう言う。 (ボクの目標はあの人と戦って勝つことなんです!) ――――――しかしながら、自分は想う。 誰かの灯火であり続ける事というのは、傍から観るよりもずっと辛い事なのではないのだろうか。 負けられない。 無様を晒せない。 模範であり続ける。 誰かの夢で居続ける。 それでも己の夢を掴む。 誰かに夢を視させる。 雛形を伝え続ける。 大敗を晒せない。 負けられない。 ――――――考えすぎだろうか。 どことなく、彼がそんなモノを背負っているような、そんな気がした、から、あの日のボクは逃げ――踵を返したのだ。 ――――そんな勇者に――誰がどうして。 もう、既に負け切っている自分を視せられる――――。 コンビニの喧騒が嫌で嫌で堪らなくなり、ボクは外へと向かう。手には、何の買い物も掴んでいない。ボクの手のひらは、いつだって開いたまま、何も掴まないのだ。 ただの冷やかしだったが、店員は、アリガトウゴザイマシタとボクの背中に投げつけた。同時に追随するように自動ドアが開く。 「久しぶりやな」 ――その第一声は、鼻っ柱にかするようなジャブを受けた、そんな感覚に陥らせる声だった。 |