『ファイターズシップ』

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(2)
「お前久しぶりやなぁ! 元気にしとるか?」

 屈託無く笑った彼の前歯は、一つ欠いていた。
 会いたくない時に……と言うよりも。
 頑張っていない自分に、頑張っている彼と会う資格があるのだろうか。

 そう思っていた、から、こそ、突然会ってしまった事に戸惑い、驚いている。もしくは、おののいてる、そう表現した方がいいのかも知れない。

「お前一年……いや二年ぶりくらいちゃうんか、会うの?」

 ボクは何故か気恥ずかしい気持ちになって、ただ頷いてみせた。
 しかし早朝にコンビニとは……あぁ、そうか。
 彼の背後には、赤ん坊を抱いている女性がいた。

「こんにちは、お久しぶり」

 彼女はボクと同級生で、学校も小中高を共にしていたのだった。
 とは言え特別仲が良かった訳ではなく、街路ですれ違おうならば会釈一つで一切が済む、そんな程度の“ただの知人”だった。

「今日は家族連れや」彼は誇らしげに、父の表情で笑う。
 ジムで観た時の、狼のような表情は一切無い。

「今から俺ら海行くんやわ。良かったら一緒に来るか?」
 海…………確かに、今日はそんな日和だ。まだ七月の上旬とはいえ、今年の夏は例年よりも暑い。
「なぁ、一緒に連れてってエエやろ?」彼は半身だけ後ろに捻って、奥さんに確認を求めた。
「あ、うん、ええで」彼女は小さく戸惑いつつ了解した。確かにお互いの面識はあったが、関係としてはほぼ他人なのだから無理もない。

「よっしゃ、ほなさっさと買い物済ませて行こうや」
 しかし、一緒に海へ行く事を、ボクはまだ了承していない。

 ――あの、とボクが声を出すより一瞬早く、彼は口を開く。
「お前水着どうする? ちゅうか今まだ九時過ぎやろ? 今日は海行く言うても遠出して、ちょうど昼過ぎに着くようなトコまで行くんやわ」

 それなら家に寄って欲しい、準備をしてくる、との旨を、ボクは彼に伝えた。人に誘われてそれを断る勇気など、やはりボクには足りなかった。

 しかし、心の内の何処かでは、誘ってもらえる事に対する喜びがある。
 ボクの心の内には、矛盾した塊ばかりが転がっているのだ。


 ――――車窓から見える海岸線は優雅だった。

 後部座席に一人座るボクは、運転席と助手席に座る夫婦の会話に殆ど口を挟まず、ずっと景色を眺めていた。
 半分開いた車窓から入り込んでくる気流は穏やかで、母親に頬を撫でられていた幼き頃を想起させるような、そんな気持ちにさせてくれた。

「あのよ」運転中の彼が口を開いた。
「こないだジム来とったてか?」
 ボクは言葉を返せなかった。

 あれは、あの日は、訪問したという行為に値しない。
 覗き観ただけだ。
 そして、世界の違いに足がすくんだ。
「声ぐらい掛けてったら良かったのに、なんですぐ帰ってもぉたんや?」彼は他意の無い疑問を打った。

 ――――ボクが居ていい場所じゃないと思ったから――――。

「まぁ何にせよ今度来る時はちゃんと声掛けてくれよ。言うても練習に夢中になっとったら気ィ付かんかもしれんけどな」
 そん時は会長かトレーナーやらに声掛けてくれ、と彼は言葉尻に添えた。

 車窓から見える景色には、海水浴場にて遊んでいる若者達の姿が入り込んでいた。海は、もう、すぐそこだ。


 幼い子と海ではしゃぐ彼女は美しかった。勿論、他意など無い。ただ、彼女の成長過程を知っているだけに、その変わりように、時の流れというものを意識しただけだ。

「元気やなぁあいつら。オレらオッサン組はひなたぼっこやな」そう言って彼ははにかんだ。

 ボクと彼は同い年で、まだ二十代も半ばなのだからオッサンと呼ぶには早過ぎるだろう。
「いや、そんな事もないぞ。結婚して子供出来たら尚更や。しかも俺ジム通っとるやろ? ジムには高校生やらぎょうさんおって、どうしても比べてまうんやな、自分と」

 確かに、ボクの身の回りには年下の人間が少ない。寧ろ年上ばかりで構成されている。なるほど、老化感は相対的なものなのか。
 そして、海の家で座りながらかき氷を食べ、ぼぉっと海を眺めている彼とボクの姿は、確かに若々しくない。そう思って苦笑した。

「――想うんやわ」彼は突然呟いた。
 急に声のトーンが変わったので、ボクは小さく戸惑い、彼の顔を観る。

 ――――その顔つきは、ジムに居た時の顔と似ていた。

「若い奴見とると、そいつらの吸収力見とるとな、どうしても、嫉妬やら、羨ましいやとか、そんな事考えてまうんやわ」
 だが、ジムの若い子達は皆、彼を尊敬し、目標としている。
「アホ言うな、俺なんてまだまンや」
 しかし、彼は西日本の新人王に輝いた。謙遜しているのだろうか。
「あぁ…………」
 彼は七月の蒼い空を見上げ、雲一つあらへんな、と呟いた。
 そして、言葉を継ぐ。

「勝ちにも色々あってな……ホンマはドローやってん」
 ボクは眉根を寄せた。
「勝利扱いのドローっていうもんがあってな。そんなもんで興奮しとったら先続かんやろ。第一、俺は元々ドローばっかりやねん。判定で負けたりな」

 ――――驚いた。

「やから俺はまだまンなんや。掴みたいモン、まだまン遠くにあんねん」
 これから真夏を迎える空は、まだ夏に成りきれていなく、何処か胡散臭い蒼で満たされている。
「ま、何があっても続けるけどな、ボクシングは」
 彼は切なげな空気を掻き消すように、声の調子を変えて言った。

 ――どうしてそこまでボクシングに打ち込めるのだろう。

「なんでやろな、わからんけど……気付いたらやってたって感じやな」
 たった独りで、ジムも無かった町で、たった独りで、仕事が終わった後、ガレージで毎晩練習して……。
「多分――――俺は、俺のリングを見つけたんや」

 自分のリング――――。

「ボクシングのビデオ観てな、それでやり始めた訳なんやけど、ジム無かったやろ? せやったら独りで練習してプロライセンス取るしかないわ、って思ったんや。我ながらアホみたいな発想やったけどな」苦笑する。

 そして、それが周りの人間を動かした――――。

「やりたい事を出来る限りやれる場所。それが、たまたま俺の場合ボクシングのステージやった訳やな。そんで、ジム無しトレーナー無しで、独りでずっと黙々練習しとったんや。それで結果出んかったら嘘やろ?」

 確かに、彼は結果を出している。

「……お前は、見つかったんか?」
 彼の言葉に、何故か心臓が震えた。
「見つけたんか?お前が戦う、戦えるリングを」

 ボクのリング――――。

「うはは、我ながら臭っさいセリフやったな」破顔する。
 今のボクは、ただのフリーターで――――。

「ほら、昔言うとったやろ? 何やったっけ? 何かやりたい事あるて」
 砂浜で遊んでいる母親とその子供の姿を、ボクはぼんやり観ていた。
 昔はボクも彼も、あんな風に子供だったのだ。
 何処で、何が原因で、こんなに差が付いたのだろう。

「また今度ジム来いや。ええぞ、みんな気ィ入っとるから、それ観とるだけでも気分転換になるわ」
 ボクは心の内を読まれていたような気持ちになって、ただ無言で頷く事しかできなかった。

 空の蒼色は、やはり胡散臭いままだった。

  (続)

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