『ファイターズシップ』

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(3)
 七月の夜は緩やかな熱で満たされていた。
 早く八月になってしまえばいいと思う。
 ボクはこの中途半端な熱気が嫌いなのだ。

 そして……喧騒を放っている扉。
 ボクは熱すぎるのも苦手だった。

 数分の間、ジムの扉から放たれる熱気に逡巡しながらも、ボクはようやく足を進め始める。ノブを掴む右手が震えている事に気が付き、一度手を離し深呼吸をして、再度ノブを掴んだ。もう右手の様子は見ない。


 ジムは以前と変わらず、雑多な人種で溢れていた。
 和気あいあいとボクササイズをしている女性。
 闘魂剥き出しでサンドバックを叩いている高校生。

 そして―――――――――。
 ―――彼は何も観ていない。
 ―――――――いや、違う。

 彼は総てを視ている。
 己を視ている。
 まだ見ぬ対戦相手を視ている。
 今の自分と、その延長線上に居る自分を視ている。

 だから――――何も観ていなく、総て視ている。
 彼は一心不乱にスパーリングを行っていた。タイ人のトレーナーが傍らで何かを叫んでいる。

 あれが勝負の世界の色彩なのか――――――――――――――。
 ――――――――――――――あれはただの練習だというのに。

 それとも、彼が今生きている世界が、勝負の色で塗りたくられているだけなのだろうか。少なくとも、先日の父親としての表情は無い。今、彼は己の世界を勝負の色で塗り固めているのだ。

 ボクの住む世界は灰色かもしれない。
 黒もなく、白もない。寧ろ両方併せ持っているのかも知れないけれど。

 ボクがそれを自由と呼ぶ為には、勇気が足りなかった。
 そして、今夜もサイドロープの国境を越えられず踵を返していくのだ。

 ――外へ出ると、夜空が妙に青みがかっていた。月の大輪はない。
 ふと、背後でがしゃりと音が鳴った。
 振り返ると、見知らぬ中年男性が立っていた。なるほど、音の正体はドアを開閉した音だったのか。

「自分、この前も来とった子やろ?」何故か伏し目がちに、男性は言った。
 ボクは頷いてみせる。
「アイツ、自分に会いたがっとったから、今一応声かけさせてもろたんやけど……自分は会いたないんか?」

 それは――――。

「せやけど会いた無かったらココまで来んよな?」
 ボクは返す言葉も無かった。
 会いたいけれども会えない、何故なら。
「特別な事情でもあるんかも知れんけどな、アイツは会いたがっとるよ。わしが言えるのはそれだけや。ほやから気ィ向いたら入っといで。もうすぐ他の練習生も帰るしな」人おらん方が話し易いやろ、と加えて言った。

 背を向ける男性に会釈と共に感謝の言葉を投げた。男性は振り向きもせず右手を挙げて見せ、再度ジムへと戻っていった。

 ――――会いたいけれども会えない、何故なら。

 ボクは彼に引け目を感じている。
 ボクはボクシングをやる人じゃなく、観る人だ。それはそれで良いのだ。何も悪くはない。ボクがボクシングを始めて――彼を負かせる、とまではいかなくてもリング上で向き合える――そういう風になる必要は無いのだ。

 無いハズだ。

 ――――ただ、何もしていないボクが、己のリングを持つ者に声を掛けて良いのか、そんな資格があるのか……それを考えると足が竦むのだった。

 我ながら歪な精神をぶら下げていると思う。
 心の中に矛盾の塊があって、それが大半の位置を占めているから、心はどうしても自由にならない。


 暫く夜空を眺めていると、練習生達や女性達がジムから続々帰って行くのが分かった。ボクはジムから少し離れた場所で煙草を吸っている。

 入るなら今だろうか。

 いや、まだ新しい煙草に火を点けたばかりだ、と自分用の言い訳をして、更に五分ほど身じろぎせずにいた。夜空の星がパチクリと瞬いている。吸い込まれそうな明滅だった。そして、それ故に煙草はすぐに吸い終えてしまった。

 意を決してジムのドアを開くと、口内にある煙草の残り香がジム内の匂いと相反して、何者かに対して後ろめたい気持ちになった。

「よぉ、やっと来たな」彼は椅子に座りながらタオルで身体を拭いている。
 あぁ、やっと来られた。心中でそう想った。
「取り敢えず牛乳でも飲むか?」そう言って破顔した。

 ローカルテレビでの取材で言っていた事だが、彼は練習後に牛乳を1パック飲み干すらしい。
「試合も近いからな、減量しないとダメよ」タイ人のトレーナーが流ちょうな日本語で言ってのけた。
 今、ジムには、彼とトレーナーと先ほどの中年男性しか居ない。人が少ない分話し易いかと思ったが、寧ろ気まずかった。
「ホンマげっそりやわ」そう言った彼は、確かに頬が痩けている。
「わしの肉やろか?」
「会長も少しは減量した方がええんちゃいます?」
「やかましいわい」会長はまだまだ少ない皺をよせて笑った。

 先ほど覗き見た時とは別人のように、彼は笑い返した。
「せやけど悪かったな、よう考えたら声掛けづらいわな。俺、練習中は別世界におるからよ」嫁もジムには来んねん、と言後に加えた。

 ――それはきっと、来られなくなったのだろう、と勝手に思った。

 あの練習風景を観ていれば、入る余地なんて無い。
「お前も練習、ちゃんと観てったら良かったのになぁ。そしたら熱も伝染って何かやる気出るかもしれんかったのに」
 違う。それは違う。ボクはあんな熱に耐えられない。だから。
「よし、お前今からグローブ付けろ。ミット打ちやらしたる」

 ――――ボクには、彼の意図がまるで理解できなかった。

 けれど、ボクは、それを考えるよりも早く頷いていた。
 頭は平静でいて心は何故か揺れ、体が不思議と熱い。

 やはり、少なからず熱が伝染ったのかもしれない。

  (続)

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