『ファイターズシップ』

ボクシングのゲームの区切り画像

(4)
 グローブは思ったよりもずっと重かった。
 ヘッドギアだってそうだ、彼らが積んでいる練習を思うと、改めて凄味を感じずにはいられなかった。

「会長もトレーナーも帰ったし、オレ流で稽古つけたるわ」
 それでも、この重みは、安全の為に作為された“重量”なのである。
 軽く、薄くなればなるほど――怖くなる。

「準備オッケーやな?」彼はミットを軽く振りながら言った。
 しかし、どうしてミット打ちでヘッドギアが必要なのだろうか。

「ほないくで、はい右ジャブ!」
 軽く、彼の左手にあるミットに向かって拳を打つ。

「ちゃう! 手で打つな! 腕も意識! 重心の動き方意識せぇ!」
 次は左ジャブ右ジャブのワンツー。

「そう、バランスやぞ! 身体は全部バランスや!」
 筋肉に加えた力と、その反発を感じながら、再度ワンツーを打った。

「打つのはええけどそれじゃがら空きや!」
 そう言って彼はミットでボクの頬を打った。

「ただの動く的ちゃうぞ! 気ィ入れてやれ!」
 ボクは意識を集中し直す。

 何度かパンチを打っては、時折飛んでくるミットを避けたり、避けきれずに痛い思いをした。その度、ボクは防御という意味を知る。

 ――しかし不思議と心地良い。

「お前筋ええぞ! ただ息上がるの早過ぎるけどな!」
 それはそうだ、ボクはロクに運動もしない愛煙家なのだから。


 時間にしてモノの数分で、ミット打ちは小休止に入った。

「お前もっと運動せな身体壊すぞ」そう言って彼はミットを外す。
 それは過酷な練習を積んでいるお前にも言える事だ、とボクは言った。
「ははは、それもそうやな。前歯折れたん試合やなくて練習でやしな」
 そう言って彼は破顔した。ボクも思わず笑ってしまった。

 そして笑い声が止んで数秒の沈黙を経て、彼は神妙な面持ちで口を開く。
「…………なぁ、いっぺん俺とスパーリングせんか?」

 ボクは目を見開いた。ボクにはボクシングの経験なんて全然なく、かつ、彼とは体格差もある。どう考えたって――。
「俺はお前とスパーしたいんや。拳通してしか解かり合えん事もあるやろ。それにスパー言うても簡単なスパーや。打ち込む力は加減する」せやないと素人の人間壊してまうやろ、と加えて言った。

 暫く、互いに一言も発さない時が過ぎた。

 彼は、何かを伝えたいのだろうか。
 それとも、ボクの何かを知りたいのだろうか。
 ボクは、ボク自身の事さえ解かっていないというのに。

「会長もトレーナーも帰った、今しかないんや」
 二人きりのリング。セコンドは居ない。レフェリーも居ない。
 ボクにはボクシングの経験なんて全然なく、かつ、彼とは体格差もある。どう考えたって――――だけど、不思議と心音が高鳴っている。

「やってくれるか?」

 やってみたい――――――――。
 ――――――やってみたいんだ!

 ボクは立ち上がり、彼の眼を見つめた。
 彼は無言でグローブを付け始める。
 ジムの中の空気が不思議と変わっていくような気がする。
 熱源は判らないが、何か熱いモノを感じる。

「始めるぞ」彼は痩せ狼の表情で呟いた。
 ボクは頷き、彼はゴングの代わりに、己のグラブ同士を打ち鳴らした。
 そして、彼とボクは交錯する。


 始まって、まだ三分と経っていないはずだ。
 なのに、ボクは息を切らし、顔を腫らしている。
 ヘッドギアの意味なんて無い。
 それくらい、彼の拳は重かった。

「手加減でけへんからな」彼は呟いた。半分ウソで、半分はホントだろう。
 それに対してボクは、上等だ、と思った。半端な加減なんかされたら、それこそ二度と彼には会えなくなる。
 彼は真剣に“手抜き無しに手加減してくれている”のだから。

「少しは擦らせてみ」彼は挑発的に前傾姿勢でジャブを打ってきた。
 ボクは応じるように拳を出すが、空拳で終わる。

「お前が欲しいのはなんや?」そう言って彼はボディを打った。
 腹に鉛を仕込まれたような感覚と共に、想う――――。
 欲しいモノ、欲しいモノ――――。

「なんも無いんか?」強烈な右フックが頬を捉えた。
 欲しいモノ、欲しいモノ――――。

「俺と互角にやりたいか?」

 そうじゃない―――――――――!
 欲しいのは腕力じゃない。筋力じゃない!
 要るものだってそうだ! 腕力じゃない! 筋力じゃない!
 欲しいのはそれじゃないんだ!

「それとも前言うとったヤリタイコトってヤツか?」

 違う! 欲しいのは、欲しいのはリングなんだ!

 ボクはまだ、自分との勝負にも勝ってないんだ!

「えぇか、どないや? 俺からくらったパンチ強いやろが。今の俺は、お前や。未来のお前かもしれん」そう言いつつも彼は拳を止めない。
 リングの中で一方的な音が鳴っている。

「俺も昔はクソ弱かった。今でもまだまン大したこと無い。それでも、俺は戦っとる。それで、人並みよりは強くなったし、これからも強ぉなる気や」
 ボクは、自分のリングを――――。

「どうするんや。お前はそっち側か?」彼は振るっていた腕を止めて後ずさり、リングの外を指した。
 サイドロープ、その劣旧が、何千回と誰かの背中を受け止めてきた線が、今は国境線のように視えている。

「お前、何を悩んどんねん。噂で聞いたわ、どうも元気ないっつってな」彼は息を短く吐き、再度短く吸った。それを数度繰り返している。

 ――――それで、なのか。

「二年ぶりに会ったんや。それもたまたま。別に神様信じとる訳とちゃうけど、久し振りに会ったお前の顔見とったら、放っとかれんかった」
 暫時、沈黙がリングを支配した。

「どうや、気分転換になったか?」
 荒っぽい気分転換だ、そう言って互いに笑った。

「で、お前、ボクシング本気でやってみぃへんか」
 彼は真剣な面持ちで言った。

「好きなんやろ? ボクシング。せやったらやったらええ」
 サイドロープにもたれ掛かった彼は、何処か遠い目をして言ってのけた。

 彼の荷重によって揺れたロープが、何かを暗喩している。

  (続・5)

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