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グローブは思ったよりもずっと重かった。 ヘッドギアだってそうだ、彼らが積んでいる練習を思うと、改めて凄味を感じずにはいられなかった。 「会長もトレーナーも帰ったし、オレ流で稽古つけたるわ」 それでも、この重みは、安全の為に作為された“重量”なのである。 軽く、薄くなればなるほど――怖くなる。 「準備オッケーやな?」彼はミットを軽く振りながら言った。 しかし、どうしてミット打ちでヘッドギアが必要なのだろうか。 「ほないくで、はい右ジャブ!」 軽く、彼の左手にあるミットに向かって拳を打つ。 「ちゃう! 手で打つな! 腕も意識! 重心の動き方意識せぇ!」 次は左ジャブ右ジャブのワンツー。 「そう、バランスやぞ! 身体は全部バランスや!」 筋肉に加えた力と、その反発を感じながら、再度ワンツーを打った。 「打つのはええけどそれじゃがら空きや!」 そう言って彼はミットでボクの頬を打った。 「ただの動く的ちゃうぞ! 気ィ入れてやれ!」 ボクは意識を集中し直す。 何度かパンチを打っては、時折飛んでくるミットを避けたり、避けきれずに痛い思いをした。その度、ボクは防御という意味を知る。 ――しかし不思議と心地良い。 「お前筋ええぞ! ただ息上がるの早過ぎるけどな!」 それはそうだ、ボクはロクに運動もしない愛煙家なのだから。 時間にしてモノの数分で、ミット打ちは小休止に入った。 「お前もっと運動せな身体壊すぞ」そう言って彼はミットを外す。 それは過酷な練習を積んでいるお前にも言える事だ、とボクは言った。 「ははは、それもそうやな。前歯折れたん試合やなくて練習でやしな」 そう言って彼は破顔した。ボクも思わず笑ってしまった。 そして笑い声が止んで数秒の沈黙を経て、彼は神妙な面持ちで口を開く。 「…………なぁ、いっぺん俺とスパーリングせんか?」 ボクは目を見開いた。ボクにはボクシングの経験なんて全然なく、かつ、彼とは体格差もある。どう考えたって――。 「俺はお前とスパーしたいんや。拳通してしか解かり合えん事もあるやろ。それにスパー言うても簡単なスパーや。打ち込む力は加減する」せやないと素人の人間壊してまうやろ、と加えて言った。 暫く、互いに一言も発さない時が過ぎた。 彼は、何かを伝えたいのだろうか。 それとも、ボクの何かを知りたいのだろうか。 ボクは、ボク自身の事さえ解かっていないというのに。 「会長もトレーナーも帰った、今しかないんや」 二人きりのリング。セコンドは居ない。レフェリーも居ない。 ボクにはボクシングの経験なんて全然なく、かつ、彼とは体格差もある。どう考えたって――――だけど、不思議と心音が高鳴っている。 「やってくれるか?」 やってみたい――――――――。 ――――――やってみたいんだ! ボクは立ち上がり、彼の眼を見つめた。 彼は無言でグローブを付け始める。 ジムの中の空気が不思議と変わっていくような気がする。 熱源は判らないが、何か熱いモノを感じる。 「始めるぞ」彼は痩せ狼の表情で呟いた。 ボクは頷き、彼はゴングの代わりに、己のグラブ同士を打ち鳴らした。 そして、彼とボクは交錯する。 始まって、まだ三分と経っていないはずだ。 なのに、ボクは息を切らし、顔を腫らしている。 ヘッドギアの意味なんて無い。 それくらい、彼の拳は重かった。 「手加減でけへんからな」彼は呟いた。半分ウソで、半分はホントだろう。 それに対してボクは、上等だ、と思った。半端な加減なんかされたら、それこそ二度と彼には会えなくなる。 彼は真剣に“手抜き無しに手加減してくれている”のだから。 「少しは擦らせてみ」彼は挑発的に前傾姿勢でジャブを打ってきた。 ボクは応じるように拳を出すが、空拳で終わる。 「お前が欲しいのはなんや?」そう言って彼はボディを打った。 腹に鉛を仕込まれたような感覚と共に、想う――――。 欲しいモノ、欲しいモノ――――。 「なんも無いんか?」強烈な右フックが頬を捉えた。 欲しいモノ、欲しいモノ――――。 「俺と互角にやりたいか?」 そうじゃない―――――――――! 欲しいのは腕力じゃない。筋力じゃない! 要るものだってそうだ! 腕力じゃない! 筋力じゃない! 欲しいのはそれじゃないんだ! 「それとも前言うとったヤリタイコトってヤツか?」 違う! 欲しいのは、欲しいのはリングなんだ! ボクはまだ、自分との勝負にも勝ってないんだ! 「えぇか、どないや? 俺からくらったパンチ強いやろが。今の俺は、お前や。未来のお前かもしれん」そう言いつつも彼は拳を止めない。 リングの中で一方的な音が鳴っている。 「俺も昔はクソ弱かった。今でもまだまン大したこと無い。それでも、俺は戦っとる。それで、人並みよりは強くなったし、これからも強ぉなる気や」 ボクは、自分のリングを――――。 「どうするんや。お前はそっち側か?」彼は振るっていた腕を止めて後ずさり、リングの外を指した。 サイドロープ、その劣旧が、何千回と誰かの背中を受け止めてきた線が、今は国境線のように視えている。 「お前、何を悩んどんねん。噂で聞いたわ、どうも元気ないっつってな」彼は息を短く吐き、再度短く吸った。それを数度繰り返している。 ――――それで、なのか。 「二年ぶりに会ったんや。それもたまたま。別に神様信じとる訳とちゃうけど、久し振りに会ったお前の顔見とったら、放っとかれんかった」 暫時、沈黙がリングを支配した。 「どうや、気分転換になったか?」 荒っぽい気分転換だ、そう言って互いに笑った。 「で、お前、ボクシング本気でやってみぃへんか」 彼は真剣な面持ちで言った。 「好きなんやろ? ボクシング。せやったらやったらええ」 サイドロープにもたれ掛かった彼は、何処か遠い目をして言ってのけた。 彼の荷重によって揺れたロープが、何かを暗喩している。 |