ルイ11世の基礎知識
作成日 2006.1.11 最新更新日 2007.11.11
※引用された事柄は歴史書から引用したものですが、個人的な見解も
付け加えてありますので、全ての記述が史実であるとは保証できません。


序 章
旺盛な支配欲の権化で恩義を仇で返す皮肉な悪口屋の執念深い
冷血漢。粗野で神経質、正義や誠実観からかけ離れた陰険な
現実主義の持ち主。権威主義的で強引かつ衝動的な性格であり
複雑で狡猾な策略を好むひねくれた外交家で得意技は買収、欺瞞。
その軽率で無分別な傲慢さからしばしば窮地に陥る事もあったが
自分が必要とする人々を魅惑する秘策や柔軟で機敏な政治感覚を
駆使し奇跡的な頽勢挽回の力を発揮。フランス繁栄の為の体制と
基盤を整えた。
と、いうのが各種歴史書に記るされているルイ11世の説明をまとめたものです。
このコーナーでは年表の補足を兼ねて、硬軟取り混ぜた各種のデータを御紹介します。



1.犬好き   2.女嫌い   3.ファッション





1.犬好き
 ワイン好きでも有名であるルイだが狩猟も大好きだった。その関連ともいえる趣味として犬の
蒐集と飼育があり、ありとあらゆる種類の犬を集めようとヨーロッパ中をくまなく探させた。
スペインから大型の猟犬、スコットランドからグレーハウンドを、ブルターニュ からはそれに
スパニエルもつけて、イングランドからはマチフス、イタリアのメディチ家からは大型番犬を
貰い受けた。どちらかというと灰色の犬が好みだったらしいがミラノ公にキオス島原産の小型犬
を頼んだ時には白か茶色をと注文をつけている。
 犬種では特にグレーハウンドのような猟犬を好み、特別な寵を得た愛犬としては、シェラミ
(いとしいやつ)、アルテュス(アーサー王の事)、ボーヴォワザン(良き隣人)、プレシス、
パリ、バスクの名前が記録されている。
 健康オタクとしても有名だったルイは犬たちの健康にも非常に気を使い、病気になったり迷子に
でもなったりしたら大騒ぎをし、ありとあらゆる手段を講じさせた。
 自分自身は贅沢を嫌い質素な生活を好んだルイだったが、犬達には大層気前が良く犬の引き綱は
色染めの羊毛、首輪はイタリアのロンバルディア製なめし革、金メッキの鋲が付けられ、特に寵犬
シェラミの首輪は真珠20個とルビー1個で装飾されていた。これまた寵愛していた犬バスクが
老齢の為に目が見えなくなった時には年額二十六リーブルの終身年金を与え、死んだ時には追悼
する詩まで書かせている。
 もっとも「犬に与えた」とはいえ、ルイの財産である事には変わりないじゃないかと思われる
かもしれないが、そうではない。ルイが騎士団を創設した事でも有名でその絵画にはルイと共に
グレイハウンドが描かれているサン・ミッシェル騎士修道会には「その守護に対して非常に有用
かつ有益である」犬達の食費と飼育費に当てるように二十トゥール・リーブルを寄贈しているし、
セントヒューバート種を育成していたサン・チューベル修道院にも寄進をしている。

主要参考文献 「世にも有名な犬たちの物語」・「フランス中世歴史散歩」他




2.女嫌い
 寵臣をいつも連れ歩き、一般庶民の不幸には、しばしば心を動かされ善意に満ちた親切な態度
を示し、一人息子を異常なまでに溺愛したルイだったが、女性に関してはひどく冷淡だった。
 当時の王侯貴族(だけではないが…)の結婚は、政略と経済性が最重視され、恋愛結婚という
のは例外的な存在であった。それにしてもルイの場合、妻女に対する態度の冷たさはしばしば
特筆されている。
 一人目の妻、スコットランド王女マルグリットには大変厳しい態度をとっていた。彼女は大層
不幸な結婚生活を送り、その生涯を嘆きつつ夭折するが、ルイはその死に際してまでも冷淡で
あったそうだ。
 二番目の妻はサボア公女シャルロットだが、彼女とは父王の反対を押し切って結婚した。
というと、いかにも恋愛結婚だったように思われそうだが、実際は自分の勢力拡大を目的とした
ものだったといわれている。ルイの二度目の謀反が失敗し、ブルゴーニュに亡命していた頃には、
彼女は貧窮の真っ只中に置かれていた。王妃になった後も、先妻同様に冷遇され続け、別居同然で
事実上の監禁状態にあり「子供を産む機械」という扱いをされていた。
 正妻である王妃を遠ざけていたという意味では、父親と同じだが、かといって父親のアニエス・
ソレルのような熱愛した寵妃がいたからというわけではなく、幾人かいたとされる妾は皆、物の
数に入らないような行きずりの関係だった。
 その女性蔑視は娘達にも適用される。虚弱体質で病気がちだった息子(シャルル八世)には常時
医者を付き添わせ、始終その様子を手紙で報告させていた。やっと生き残った王子にすべての愛情
を注ぎ込んだといわれるが、娘達への態度はそれと正反対だった。その善良な性質にも関わらず
夫運にも美貌にも恵まれなかった娘、ジャンヌ・ド・フランスに対して「こんなに醜いとは思って
いなかった」という暴言を繰り返したが、ルイに生き写しといわれるほど有能で優れたもう一人
の娘、アンヌ・ド・ボージューへの態度も大差なく、彼女を「王国で最も聡明な女性」と讃えた者
に対し「馬鹿な事を言うものではない。聡明な女性など、この世にはまるでおらぬのだ」と言い
放った。
 中世一般の女性観として、男を堕落させた罪深いイブと、清廉純潔な聖母マリアの両極端が
あるが、それにしてもルイの女性蔑視の甚だしさは普通ではない。父親がヨーロッパの全宮廷に
広まった愛妾制度をはじめたという不名誉な経歴のもとになった寵姫アニェス・ソレルとは、
彼女を平手打ちしたとか、剣を持って追いまわしたとかいう話が囁かれるほどの不仲で有名だ。
原因はアニェスがルイの母親でもある王妃マリー・ダンジューを侮辱した(おそらくこれは事実
だろう)からだそうだ。人によっては一つ違いの美女アニェスに恋心を持ったが、相手にされ
なかったからだとか、反発する父王の寵姫だからだったからと、勘ぐる人もいる。確かにドラマ
などではありそうな話ではあるがルイはそんなロマンチックなタイプではない。そして彼の女性
へ見せる無礼な態度は初めの結婚の時に既に指摘されている事である。アニェス・ソレルへの
憎悪は、相手が女性である事に加えて、国王の寵妃として、王妃のみならず王太子である自分以上
の(実際その勢力は国王以上だったかもしれない!)権勢を持っていたというのが原因と見るのが
自然だろう。大きな権力に対する敵愾心は、ルイの生涯全般において見られる傾向でもある。
 またルイは、王に反旗を翻す時の口実に「虐待された母の敵討ち」を上げている。もしかすると
マザ・コンなのか?とも思えるが、そのわりには同じ家族である妻や娘に対する態度が悪過ぎる。
家族以外の女性(貧者、女性隠者、ジャンヌ・ダルク等々)には不遜な態度をとるような事はして
いないところを見ると、幼少期に父性不在の環境で、母親と密接に過ごした環境や、思春期以降の
母親離れの時などに、彼の女性観を悪化させるなにかがあったのでは、と推理している。

主要参考文献 「歴史の地獄U」他



3.ファッション
 ルイのファッションセンスについては、同時代の人々が書き残した記録がある。ブルゴーニュの
年代記作家であったシャトランは、ルイがブルゴーニュ公と轡を並べてノルマンディー地方の町、
アブヴィルを練り歩いていた時に、初めて国王の姿を見た人々が驚愕した様子を語っている。
「身分高き人にふさわしい御姿の我殿様(ブルゴーニュ公)」に引き換え、「世界で最も偉大な王
であらせられるはず」の国王があまりに粗末な服装をしているのを見た人々は、
「馬と衣装をひっくるめても、二十フランの値打ちもない」
「騎士というより、従者といった方がぴったり」
と聞えよがしに言いあった。
 もともとは、貧しき人々の味方であったキリスト教の「神の家」であった教会が、天まで届く
ような壮麗豪奢な伽藍となった時代に、社会的身分の最高位にいるべき国王が、そのような粗末な
服装で、人々の前に現れるなどとは到底考えられない事だった。また、彼等の困惑の声を耳にして
いながら、気にも止めないルイの様子は、ますます人々をとまどわせた事だろう。
 しかし、ルイが「美」というものに無関心だったわけではない。ルイにとっては信仰と共に
芸術愛好が日常生活においての大きな喜びのひとつであり、「美」に関して確かな嗜好と選択眼を
持っていた。数多くの教会を建築、修復し、維持管理に尽くした。更に多額の基金を贈り、様々な
絵馬、聖器、聖職者用の装飾や、衣服や楽器なども献納した。
 もちろん物だけではなく、数え切れないほどの芸術家を保護し激励した。その範囲は、彫刻家、
画家だけでなく、建築、工芸等々、多岐に渡った。
 また、若い頃のものと思われる肖像画では、当時の流行である細かいウェーブをつけた髪形を
しているのが見られる。そして晩年、自らの墓碑彫刻を発注する際にも加齢による顔面や頭髪の
変化は写実せずに「若くて」「できるかぎりの美しい顔」に表現するように依頼している。
ルイ11世の墓で現存するものはロワレ県、 クレリ=サン=タンドレの僧会教会に祈祷台に着く単独拝跪像がある。
 かように、自分自身の容姿にも決して無頓着だったわけではなく、美的センスにも優れていた
ルイが、なぜ日常着には、そのような地味で質素な衣服を好んだのか。ここで同じように、地味で
質素な服装を好んだといわれる二人の王の名を挙げよう。
 一人はヨーロッパ中世を代表する理想的君主であり、かの名高きシャルルマーニュ、カール大帝
である。この偉大な王は、立派な衣服を嫌い、普段は「ただの人」と同じ服装をしていたと記録
されている。もう一人は、これもまた名君の誉れ高き聖王、ルイ九世である。この敬虔な仏王は、
第六回の十字軍から帰還した後、鮮やかな赤色や※※ヴェールを拒否し、布地は無染色の安価な布
や青い毛織物、毛皮は子羊と兎といった、庶民というより貧民に近いような身なりをして、自分の
禁欲生活と信仰心を表わした。
当時、最高級の毛織物は同じく最高級の赤い染料で染められた。
※※ロシアリスの最高級毛皮。身分によって使用できる枚数が決められていた。
 一般に『中世貴族』のイメージといえば、剛毅と武勇を競い合う騎士達のトーナメント、恋愛
ゲームとしcenterての貴婦人への敬慕と奉仕。そして、宝石のように高価な香辛料を、ふんだんに使って
料理された珍奇な食材が、舞台装置のような派手な装飾で並べられた豪勢な饗宴に象徴された時代
である。その濫費としかいいようのない「誇示的な消費」は当時の身分の高い人々の義務とも
いえた。騎士たる者、物惜しみする事は恥とされ、蕩尽で財力を示し、まわりに自らの支配力を
見せつけるのだ。(結果、王侯貴族達は多額の借金を背負い込み、その身分と地位を危うくする
事態になっていくのだが。)
 彼等に仕える年代記作家でさえも一度ならず嫌悪を表明した「華飾の乱痴気騒ぎ」を、その筆頭
とも言えるブルゴーニュ宮廷で散々に見せ付けられたルイは、贅沢というものに憎しみを持つよう
になったといわれている。と同時に、過剰な贅沢を嫌った偉大なる二人の先人の顰に習ったという
面もあるのだろう。

主要参考文献 「中世の秋」・「歴史の地獄」「服飾の中世」・「中世に生きる人々」他


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