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我等がルイちゃん誕生♪ | 父はフランス王太子シャルル七世、母はアンジュー公女マリー・ダンジュー (1422年結婚) 代父はアランソン候ジャン二世 |
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クラヴァンの戦い | 4月17日に英国王ヘンリー六世の叔父で執政のベドフォード公とブルゴーニュ公とが アミアン条約を締結した 仏軍はクラヴァンでは敗北したがマコネでは勝利する |
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ラ・グラヴェルの戦い | ラヴェル西のラ・グラヴェルの戦いでシャルル七世軍が勝利する | |||||
0 | ブルゴーニュ公の妹マルグリット、再婚 | シャルル七世の亡き兄ルイ王太子の妃だったが、ブルターニュ公の弟リッシモンド伯 アルチュールと再婚した |
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のちに一番目の妃になるスコットランド王女マルグリット誕生 | ? | スコットランド王ジェームズ一世の長女 母はサマーセット伯ジョン・ボーフォート の娘ジョアン |
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マルグリットの父ジェームズ一世 スコットランド王として復位 |
12歳の時王弟オールバニー公の手から逃れる為に仏に渡ったがイングランドに 捕えられ軟禁される。父のロバート三世の死後から摂政として君臨し続けていた オールバニー公と、その死後は息子のムルダックが、彼の身代金の支払いを拒み続け 結局将来の仏との協力関係を放棄しイングランドとの恒久平和条約締結に同意した事 で解放され、更に本国の貴族の一派が身代金を支払いやっと復権できた |
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ヴェルヌイユの戦い | シュール・ アーヴル |
対戦相手はべドフォード公率いる一万の英国軍で仏軍はスコットランドと北イタリア (ロンバルト)の傭兵隊を主力とする一万四千の軍だったが前年のクラヴァンの戦い に続きスコットランド人部隊は多くの戦死者を出した |
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シャンベリーの協定 |
前年からローマ法王、バール枢機卿、サボア公らを仲介にブルゴーニュ善良公との 話し合いをしていたが、さらにブルターニュ公とその弟、シチリア王妃ヨランド・ タラゴン等が加わり調停を図る ブルゴーニュ側はフランスにおける軍事行動の 停止、パリ対ブルージュの抗争に対しての中立、王太子(協定書 では「王」と されている!)はブルゴーニュの所領不可侵などを取り決めた |
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パリで初めて「死者たちの踊り」が 上演される |
墓地 |
中世末期の象徴ともいえる「ダンス・マカーブル」の上演は秋雨で死臭が収まり かけた頃から始まり数カ月続いた |
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リッシモンド伯アルチュール フランス大元帥に就任 |
アルマニャク党の粛清を始める | ブルゴーニュ公とブルターニュ公 ジャン五世の協定 |
もともとブルターニュ公は英国寄りだったが、弟リッシモンド伯の影響で 仏寄りに傾く |
英軍、モン・サンミッシェルを攻囲 | - | 10 | ソーミュール条約 | ? | ブルターニュ公、シャルル七世への臣従礼を受諾する | 11 | ベドフォード公、帰国 | 不在中の事はブルゴーニュ善良公に一任し、テルーアン司教ヌルイ・ド・リュクサン ブールを補佐役にした |
英国、ブルターニュ公に宣戦布告 | - | リッシモンド伯、英軍に敗北 | ド・ブヴロン |
- | ブルゴーニュ公 セーフェンベルヘンを包囲 |
ブルゴーニュ公はネーデルランド諸邦を領有していた党首が死に一人娘のヤコバに 対して旧領主権を振りかざし攻撃する しかしヤコバがベドフォード公の弟で グロスター公ハンフリの妻でもあった為、善良公とベドフォード公夫妻との関係も 微妙なものになる |
ジェナザノ勅書による和議の承認 | 1418年に教皇マルティヌス五世がコンスタンス公会議の仏代表団と和議を締結 していた |
シャルル七世の寵臣ピエール・ド・ ジアックがヨランドの差し金で逮捕 |
ブルゴーニュ公ジャンの暗殺にも関わり王の寵愛を得て財政を握り顧問会議筆頭と なるも権力を乱用し、ヨランドの寵臣を追い出すなどの専横から襲撃されて逮捕され 裁判の後に処刑された ヨランドだけではなくリッシモンド伯の教唆もあったと されている |
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ベドフォード公、パリに戻る |
北フランス支配の為にはブルゴーニュ公の協力が不可欠であったが善良公は引き続き ネーデルランドの攻略にかまけていた。ベドフォード公は、自分の妻の兄でもある 善良公と自分の弟のグロスター公との和解を図ろうとイングランドに16ヶ月滞在 したが調停は失敗する |
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ベドフォード公、ブルゴーニュ公に 面会しにいく |
ブルゴーニュ公に急遽面会を求め夫婦でパリを出発。この時期にもかかわらず氷が 張り霜がおり雨が降り続く中を聖遺物箱を掲げたノートルダムの一行に一顧の配慮 もなく泥をはねかけて走り去った |
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ベドフォード公とブルゴーニュ公の会談 | リール | 〜6月13日まで続いた | ||||
英軍、オルレアン候領モンタルジを 攻囲するが撤退 |
ウォリック伯率いるイギリス軍に対しデュノワ伯ジャン(のちにシャルル七世の 侍従長になる)が隊長として防衛しベリ地方への道を確保した |
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ブルターニュ公、トロワ条約への 同意を再確認 |
トロワ条約は1420年、シャルル七世の父、シャルル六世が王太子シャルルを廃嫡し 王女カトリーヌと結婚した英国王ヘンリー五世を仏王摂政とし王位継承者とした条約 |
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ダントと呼ばれる死病が大流行 | − | |||||
善良公、ポルトガルに交渉団を送る | パリ |
ポルトガル王女イザベルとの縁談に際し、彼女の肖像画を描かせる為に高額の俸給で 召し抱えたヤン・ファン・エイクを同行させた |
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ブルゴーニュ公、パリに入る | 弓射手に変装し小さい馬に乗ってベドフォード公夫妻と共にこっそりとパリに来た | |||||
ソールスベリ伯、カレーに上陸 | その時、シャルル七世のまわりでは顧問官達が勢力争いの政治的陰謀に明け暮れ 反乱が起きるなどしていた |
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ソールスベリ伯、シャトーダンと オルレアンを目指す |
すでにジャン・ル・ロワ市、ボーズのロシュフォール、ジャンヴィル、を占領し、村々や町々に重い税金をかけ物価が高騰する。ぶどう酒が買えなくなった人々は さかんにビールの醸造を始める |
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5 | シャルル七世、三部会を招集 | 英国側の攻勢に抗する為、戦費支出を要請 | ||||
英軍、オルレアン市を包囲 | 英軍指揮はソールスベリ伯トーマス・オプ・モンタギュー | |||||
英軍、オルレアン市を砲撃 | たった一日で124発の石弾が撃ち込まれた | |||||
英国軍のソールスベリ伯、死亡 |
前日、ロワール川対岸の関所レ・トゥーレルを奪取したが占領地点を査察中に長砲の 弾に当たって絶命。人々は彼が数日前に聖域で略奪を働いた報いだと歌にしてはやし たてた |
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シャルル七世が三部会を招集 | 英国との対戦の為に四十万リーブルの支援金を求める | |||||
英軍、オルレアン市を蹂躙 | たくさんの建造物が焼き打ちされたが、オルレアンの住人も「敵が駐留して要塞を 築かないよう」自ら城外の土地で「焦土作戦」を行った |
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スコットランド王女マルグリットと婚約 | スコットランドとの関係を更に強化する為だった | |||||
シャルル・ド・ブルボン 「王太子シャルル」を救援する為に出立 |
約四千の兵と、スコットランド軍の筆頭元帥ジョン・ステュアート率いる援軍も同行 | |||||
ルーヴレーの戦い(鰊の日) | 仲間内の足の引っ張り合いが原因で仏軍が大敗。スコットランドのジョン・ステュア ート、ヴェルデュサンの貴族ジャン・ド・レスゴーなど優秀な将兵を多数失う |
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デュノワ伯(バタール)ジャンヌに 援助を約束 |
シャルル七世とジャンヌとの面会を取り計らう約束を知ったオルレアンの人々は 彼女を要請して王太子に使いを送る |
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ジャンヌ・ダルク 王太子シャルルと対面 |
彼女を試す為に臣下の中に紛れていた王太子を正しく識別し、その非凡さを証明した 話は有名 |
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ジャンヌ・ダルク、オルレアン市に入る | 夜八時に聖遺物を迎えるかのような大群衆に取り囲まれ、なかなか進む事が 出来なかったが、まず教会に向かった |
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ランス大司教、オルレアン市に入る | この事態に心ならずもオルレアンに来た彼をジャンヌは民衆と参加を歌う司祭達と 共に迎えた |
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英国軍、オルレアン包囲を解く | ジャンヌ・ダルクの快進撃が始る | |||||
ギ・ド・ラヴァル、幼少のルイと面会 | ギ・ド・ラヴァルは国王軍に参加する為にセル・アン・ベリに来た領主。ルイ王子の 印象を「麗しく優美、お年のわりに御行儀が良く活発で敏捷」と語った。この時 ジャンヌ・ダルクも同じ城に滞在していたのでルイも彼女と会ったであろうと 思われる |
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パテーの戦いで英国軍またも敗北 | 1415年にフランスが大敗したアザンクールの仇討ちといわれる戦闘 仏側の死者が 三人に対し英国軍の戦死者、捕虜は四千人を超えジョン・タルボットが捕虜になる |
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シャルル七世、ランス大聖堂で戴冠し 正式に国王として即位する |
ランス |
同時にルイの代父ダランソン候ジャン二世を騎士に叙す。リッシモンド元帥は王の 剣を捧げ持つ役をする予定だったが、シャルル七世は本人やジャンヌの嘆願にも 関わらずその列席を認める位なら戴冠しない方がマシだと断固拒否する |
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ジャンヌ・ダルク、善良公に手紙を書く | 仏軍に対する敵対行為を止めるようにというものだったが、善良公はパリ北部の 仏軍拠点を攻撃する |
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ブルゴーニュ側と休戦協定を結ぶ | シャルル七世の顧問官団が戴冠式の当日ランスに到着したブルゴーニュ使節団と 三日間にわたり協議 |
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ジャンヌ・ダルク、パリを攻撃 | 「バロア家のシャルルとその与党」に恨みつらみと敵意を持っていたパリは サンマルティン門を閉ざし抵抗する |
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シャルル七世、ジャンヌとその家族を 貴族に叙任 |
イエーヴル |
ジャンヌと両親、兄弟とその嫡出の子孫を貴族に列し、貴族の姓である 「デュ・リュス」を用いる資格と税金永代免除などの特権を付与する |
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善良公、ポルトガル王女イザベルと結婚 | 彼女は英国王室ランカスター家の血統でもあった | |||||
善良公、定員31人のエリート集団 金羊毛騎士団を創立 |
ポルトガル王女イザベルを迎えると同時に結成が宣言される。そのメンバーと 装束の豪華さは前代未聞と言われた豪華な饗宴と共に人々の注目を集めた |
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グルネ・シュル・アロンド要塞陥落 | シャルル七世と休戦協定中だったがその裏で密かに作戦を企てていた 善良公の包囲にあい、戦わずして降伏する |
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ブルゴーニュ派、ジャンヌを捕虜にする | 彼女はジャン・ド・リュクサンブールによって捕えられ金貨一万枚で英国軍に 引き渡される |
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シャルル七世、オレンジ公ルイ・ド・ シャロンに勝利 |
− | |||||
ジャンヌ・ダルク処刑 |
「異端者」の罪名で有罪判決を受け、ヴィユーマルシェ広場で火炙りにされた。 その遺骨は聖遺物にさせない為に川に捨てられた |
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ジャンヌの父、ジャック死去 | ジャンヌの処刑にひどくショックを受けて急死する | |||||
シャルル七世、ブルゴーニュ公と休戦協定 | 六年間の休戦を締結した | |||||
ヘンリー六世、パリで戴冠 | 英国は「戴冠式」でヘンリー六世のフランス王位を主張したがランスの大聖堂でも なく聖油塗布もなくては「フランス王」として認められる事はなかった |
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年代記作家ジョルジュ・シャトランが 教訓劇『バーゼル公会議』を上演 |
教訓劇は宗教や道徳をテーマしたものだがこれはブルゴーニュ公を擁護する為に 制作した |
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シャルレー伯シャルル (のちの突進公)誕生 |
父はブルゴーニュ公フィリップ(善良公)母はポルトガル王女イザベル | |||||
教会がシャルル七世を王位継承者と して承認 |
正式なフランス国王として南フランスを行幸する | |||||
善良公、ディジョンからリールへ移動 | アラスを経由した一ヵ月がかりの旅は日々の生活に必要な物品と人員を運ぶ為 75台の馬車を連ねる大掛かりなものだった |
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アラスの和議 | アルトワの首都、アラスのサンバースト修道院においてブルボン候シャルル一世を 首席代表としたバロワ家、ランカスター家、ブルゴーニュ家が和平会談を行う |
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アラスの条約締結 | ブルゴーニュ公がシャルル七世を仏王として認める 英仏講和は実現しなかったが ブルゴーニュ公とは和睦した しかしその内容はピカルディの割譲、王と公の 存命中は双方の家臣関係は免除されるなど、ブルゴーニュ側にだけにかなり有利な ものだった為 英国側からは相当な反発があった |
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シャルル七世の母イザボー・ド・ バヴィエール、65歳で死去 |
国王に即位した三男を自ら廃嫡した過去を持つ彼女の葬儀はノートルダムで行われた 付き添う身分ある婦人は身内と思われるただ一人のみという寂しいものであった |
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シャルル七世、パリに特赦の約束をする | 過去は水に流し、従来通りの権利を保障すると布告 同時にブルゴーニュ公にも この事に対する支持を依頼 |
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リッシュモン伯がパリを解放 | シャルル七世、英国軍からパリを取り戻す | |||||
一度目の結婚 | シャルル七世がスコットランドに恩義があった縁でスコットランド王女マルグリット (当時12歳)と結婚 |
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ブルゴーニュ公、カレーを包囲 | フランドル軍の援助で包囲したものの、自身の軍事力の限界を暴露する事となり 結局ひと月足らずで諦める |
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ブリュージュの市民が反乱 | 失敗したカレー包囲に動員されたブリュージュ市民軍が同市の親ブルゴーニュ派の 有力者達を殺害 |
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父王のところに引き取られる | それまではロッシュの城で母親と家庭教師に養育されていたが、以降は父と共に ドフィーネやラングドッグなどを旅行。しばらくしてラングドック、さらにポワ トォーの国王副官に任ぜられる |
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モンティ・レ・トゥールの代勅令 | シャルル七世の司法制度改革 | |||||
「白い木曜日事件」発生 |
親ブルゴーニュ派の有力者達が殺害された反乱鎮圧の為英国と対立していた善良公が ブリュージュ市内に進軍したが、ブーヴェリー門を閉ざされ捕虜にされかける なんとか同門から逃走し、リールで態勢を立て直しから再び侵攻し包囲する |
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モンマルトルと聖アントワーヌ門の間で 狼の被害 |
百年戦争などで人肉の味を覚えた狼の被害が拡大する。パリ・ブルジョア新聞による と「14人が食われたが、そのなかには子供と同数の大人が含まれていた」 |
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シャルル七世、パリ入城 | 助役が金百合紋の紫の天蓋を王にかざしパリ市の弩隊と弓隊が先導。背後の護衛は パリ代官の歩兵だった |
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1438 | 善良公、ブリュージュを降伏させる | 「白い木曜日事件」の報復と見せしめの為に厳しい処罰を下し処刑された反乱者 |
10人の首は同門の上に晒された | |||
フランス聖職者会議開催 | 王権を確立する為、国内での教会の権限を制限した | |||||
父王の命令で反乱軍の鎮圧活動 | ギィエンヌやラングドッグの貴族の反乱や野武士を平定 | |||||
シャルル七世 ブルージュの国本勅諚発布 |
教皇と対立しているバーゼル公会議を支持し、公会議が教皇よりも上位であると 示すと同時に国王の教会監督権を宣言国家教会を設立し、フランス国内で教皇が 徴収していた税金を廃止し教会禄の授与権も取上げた これは国内の教会に対する 教皇の権限を明確に制限し教皇の国政への介入を低下させる事を目的としたもので フランス教会独立主義(ガリカニスム)推進のはじまりとなった |
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天然痘、大流行 | 飢饉も重なり、五万人もの死者が出た | 戦士の徴募を国王の独占とする法令が 発布される |
これがプラグリーの乱の発端となった | |||
ボアトゥー反乱の鎮圧を命じられる | 鎮圧するはずの反乱軍に加担する | |||||
全国三部会が開かれる | 直接税タイユを恒常化 | |||||
オルレアン勅令(大王令) | 「隊長並びに兵卒は守備隊として国境地域の要塞に駐屯すべし」「兵士に給金を払う のは国王が選び任命した隊長だけ」という常備軍の始まりだが戦争が王公貴族の仕事 とされていた時代にこの画期的な思想は理解も許容もされなかった |
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ジャン・ド・リュクサンブール突然死 | J・シャルチエによるとジャンヌ・ダルクを英国軍に売り渡した彼は「ユダと同じ ように後悔の念に苛まれ首つり自殺した」と記している |
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プラグリーの乱 プラグリーは「プラーグ (プラハ)のフス派」の意 |
シャルル七世が野党征伐の為に出陣したすきをついて蜂起 幾人もの愛妾を持ち 母親である王妃を遠ざけ虐待した父親に復讐するという名目で反乱を起こすも ポワトゥーで敗れ、クーデターは失敗する |
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首謀者達が降伏し終結 |
この時はアラソン公とブルボン公の扇動があった事が明らかだったので赦免され 首謀者達と共に寛大過ぎる程の処分で和解し、再び父王の旅に随行する |
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アレクサンドル・ブルボン逮捕 | シュール・ オーブ |
ブルボン公ジャン一世の私生児。優れた武人としてシャルル七世に仕えたが、同時に 「皮はぎ」と呼ばれるほどの残忍な野盗でもあった 王に謁見した時に逮捕された 溺死刑を宣告され「王の正義を行き渡らせよ」と書かれた皮袋に入れられオーブ川に 沈められた |
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善良公、ブリュージュに「入市式」 | 1436年の反乱の贖罪として都市の有力者以下千人以上が無帽に裸足の下着姿で跪き 手を合せて忠誠を誓った |
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シャルル七世、ポントワーズを取り戻す | イル・ド・フランスを全域を平定 | |||||
17 | 「国王軍」約一万五千人が集められた | 1430年代からジャンとガスパールのビュロー兄弟により組織された「国王砲兵隊」 によって時と場所を選ばず攻城砲と支援火器の大量かつ安定供給が確保された |
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17 | ジャック・クール授爵 | 財政面の多大な貢献を評価し本人だけではなく、妻子にまで授爵特許状を与えた | ||||
母方の祖母シチリア王妃 ヨランド・ダラゴン死去 |
1383年11月19日、アラゴン王女として産まれた シチリア王でもあった アンジュー候ルイ二世の妃となる 実母に見捨てられていた娘婿のシャルル七世を 長年援助していた |
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ブルージュの大商人 ジャック・クール国王顧問会議参加 |
シャルル七世がブルージュに移った事をきっかけに財政関連を取り仕切った | |||||
アルマニャック伯ジャンの反乱の鎮定に 参加 |
− | |||||
トゥールーズ高等法院創設 | − | |||||
最初のディエップ遠征 | ルイは助言者デュノワ伯ジャンと共に町を救出 | |||||
シャルル七世、アニェス・ソレルと 出会う |
or トゥールーズ |
父はピカルディー・ルーダンの領主ジャン・ソロー、母はカトリーヌ・ド・メニュレ 王の義妹でシチリア王妃であったロレーヌ公夫人の侍女(それも最下位の!)だった がシャルル七世は一目惚れして「一晩中眠れなかった」そうだ |
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アニェス・ソレル、シャルル七世の 寵妃となる |
彼女をそばに置く口実に王妃の侍女にしたが実際は「食卓でも、寝室でも閣議でも 王の隣に」いてその政治的な影響力は絶大だった ボーテの所領を贈られて 「ダモワゼル・ボーテ」と呼ばれた 後にシャルル七世との間に生まれた三人の 娘達(1443〜45年の年子)にもそれぞれに新しい居城が与えられた |
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休戦協定成立 | 英国王ヘンリー六世が親政となったのをきっかけに財政難も手伝って大きく 和解に傾いた |
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トゥールの協定 | シャルル七世、英国と二年間の休戦協定を結ぶ | |||||
父王の命令でスイス遠征を強制されるが サン・ジャックの戦いでスイス軍に勝利 |
オーストリアのフェルナンド三世とスイス諸州の争いやルネ・ダンジューとメスの 住人のいざこざを理由にやっかいな「追いはぎ団」である傭兵とルイを遠くに送り 出すのを目的としたものだった |
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シャルル七世 ロレーヌ遠征 | ロレーヌ公ルネの要請があった | |||||
ヴァランジュヴィルに巡礼 | ヴァランジュヴィルはムウルト河畔の町で有名な巡礼地 ミイルの司教聖ニコラの聖遺物が祭られていた |
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国王常備軍騎士軍団(勅令軍隊)創設 | - | |||||
ブルゴーニュ公が損害賠償を請求 | アラス条約以降の仏軍による損害額として160万金エキュ | |||||
再び反乱に加担するが鎮圧される | 父王に恩赦を乞うも却下され、ドフィーネに流罪される。領民に親切にもてなされ 独立君主同然の生活をし、統治法を実地で学ぶ |
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王太子妃マルグリット(享年21) 肋膜炎で死去 |
夫には愛されず子供も生まれぬまま「何たる一生でしょう もう誰も私の事なんか 思い出してもくれないのね」と言い残し、たいそう不幸で短い生涯を 終えた 埋葬場所はシャロン・シュール・マヌルだったが、のちにサン・ドニに移された |
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ヘンリー六世 アンジュー公家に メーヌ返還を約束 |
アンジュー家のマーガレットと縁組が決まった | |||||
新たな疫病が流行 | 死者の数は一万人にものぼった | |||||
パリ大学が高等法院の管轄下に入る | 特権者集団として公権力と対立していた大学だが王権の強大化と共に「法的自立性」 を喪失していく |
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ルイが所領のドーフィネに戻る | グルノーブルを拠点に独自の政策をとり、パリに戻るようにとの顧問会議の要請も 無視し続けた |
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人食い狼として悪名高いクルトー (短い尾)と呼ばれた狼出没 |
本来森林に生息していた狼の群れがパリ場内に搬入される家畜を狙って城壁の外を 徘徊するようになる |
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のちにルイの寵臣となる フィリップ・ド・コミーヌ誕生 |
フランドル地方、ベルギー側の町コミーヌで生まれる 父親はブルゴーニュ公の 高官で金羊毛騎士団の騎士という名家であり 代父は善良公その人である |
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教皇ニコラウス五世即位 | シャルル七世の命を受けたデュノワ伯ジャンが対立していたサボア候アメデ八世 (教皇フェリクス五世を名乗っていた)を退位させた |
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仏軍 メーヌ遠征 | ル・マンを占領する | 英国軍 ブルターニュ侵攻 | シャルル七世は宗主として撤退を要請するが英国軍司令官のサマセット公は拒否する | |||
自由射手隊創設 | - | |||||
王妃マリー・ダンジュー パリを訪問 |
王妃に随行したアニェス・ソレルの「伯妃公妃とみまごう」傲慢不遜な態度を王妃は ただ耐え忍ぶしかなかった |
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アニェス・ソレル、パリを去る | 気の毒な王妃に同情したパリ市民はアニェスに対し「本来の身分」相応の扱いをした これに怒った彼女は彼等を田舎者呼ばわりして「こうと知ったらこなかった 残念 だが でもたいた事じゃない」と捨台詞を残し立ち去る |
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仏初の正規歩兵隊を組織する モンティ・レ・トゥールの王令 |
シェール県 |
戦時には月々四リーブルの俸給が支給され定期的に査閲<と訓練の義務があった 平時は無給だがタイユ税を免除された。地方の各教区は武器を用意するなど養う義務 を負わされた上にしばしば略奪行為を働かれた 英仏戦争が終われば彼等は無用の 長物であり人々の嫌われ者だった その頃彼等を題材に「威張り散らす割に敵には 弱い腰抜け」と揶揄する笑劇が数多く作られた |
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英軍 フジェールを襲撃 | ブルターニュ公の支配都市だった | シャルル七世 ブルターニュ公と同盟 | - | ノルマンディー奪還を開始 | 休戦を中断して進軍 フランス寄りだった都市は歓喜して国王軍を迎えた | |
仏軍、ルーアンを包囲攻撃 | 三日間の射石砲の攻撃を受け市民が駐留していた英軍駐留部隊に対して蜂起 王に赦免を条件に講和を求めた |
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シャルル七世、ルーアン入城 | 大司教、聖職者達、主だった市民達の「いともうやうやしい敬礼」を受け 勝ち誇って通りを行進した サン・ポール伯、ルイの楯持ちに選ばれたポトン・ド ・サントライユも随行した |
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アルフール陥落 | 英軍は水際の砦を保持しようと努め本国の物資貯蔵庫を空にしてしまったが 結局仏の砲軍に屈する |
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大砲「モンス・メグ」が鋳造される | 全長401m口径49.6cm、全重量約五tで249kgの石の砲弾<を撃ち出す事ができた 善良公の為に鋳造され、1457年にスコットランドのジェイムズ2世(故・王太子妃 マルグリットの弟)に贈られた 現在はエディンバラに展示されている |
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馬を用いない砲台の模型が シャルル七世に献上される |
1449年と1450年、ノルマンディー出兵の間に国王軍の砲手ジェノバ人のルイ・ グリボーが贈った |
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人食い狼クルトー、パリ市内を襲う | それまで城外で家畜を狙っていた狼の群れが壊れた城壁の隙間から侵入し 四十人もの人間が食い殺された |
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アニェス・ソレル死去 | ジュミエージュ |
午後六時半、メニエイルの館で四人目の子供を死産する 自身も重篤な症状に陥り 「人間なんてろくなもんじゃない 汚らしくてむかむかする」と言い残し腹部出血 により死亡 2005年4月8日にフランスの医学研究者等により過量の水銀を 摂取した為と判明した 寄生虫の治療薬として服用していたとも思われるが、当時 の状況から毒殺の可能性も否定できず複数の容疑者候補が取り沙汰されている |
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ノルマンディのフォルミニで勝利 |
英軍は多大の費用をかけ遠征隊を組織したが仏軍の大砲によって壊滅的な打撃を うける 結局英軍は三千人以上が戦死するか捕虜になり仏はノルマンディを奪還する |
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バイユー陥落 | 仏軍は二週間以上も続けて砲弾を浴びせ掛け降伏させる | |||||
シェルブール陥落 | 最後の拠点を失い三十年近くに渡ったノルマンディーの英国支配が終わる | |||||
ベルジュラック陥落 | 英国にとってバイヨンヌとボルドー南方地域への拠点だった | |||||
ペスト大流行 |
パリとその郊外で二ヶ月足らずの間に四万人の死者が出た シャルル七世の侍従医 ジャック・で・パールは伝染を食い止めようとパリの公衆浴場閉鎖を呼び掛けるが 経営者等の猛反発に遭いトゥルネーに逃亡を余儀なくされた |
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サボイ公女シャルロットと再婚 |
父王の反対を無視しての結婚だったが、その目的は自分の権力を伸ばす事だった 後年コミーヌは「サボイ公の思惑と二十万エキュの持参金、五千エキュの年金」と 共に輿入れしたシャルロットを「王妃として素晴らしくはあったが男性に幸せを もたらす女性ではなかった」と評した そしてルイがそんな彼女に対して「誠実」 であった事を称賛している |
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仏軍 アキテーヌ遠征 | - | 仏軍 ボルドー奪還 | - | |||
ジャン・ピュロー、ボルドー市長に 就任 |
優れた砲術と組織力で仏軍の勝利に貢献した新しい主人を市民は喜んで迎えた | |||||
仏軍 バイヨンヌ奪還 | - | |||||
ジャック・クール、公金横領で逮捕 | 以前からしばしば公私混同がいわれていたが国王と国の財政を非常に助けた事も 事実ではある |
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バイヨンヌ陥落 | それまで英軍側だったがフランスに服従する | |||||
シャルル七世、教皇使節を謁見 | トゥール |
教皇ニコラウス五世がギョーム・デストゥードヴィルを使節として派遣する 彼は二ヵ月後ルーアンに行きジャンヌ・ダルクの処刑裁判の再調査に関わる |
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シャルル七世、ジャンヌ・ダルク 裁判の調査を命じる |
? | 異端として処刑されたジャンヌの名誉回復を目的として復権訴訟をする為 | ||||
シャルル七世、ヘントへ使節団を送る | ピカルディーの領有問題の調停を図ろうとした | |||||
カスティヨンの戦い | 仏軍、ギュイエンヌを奪回 35〜45年の休戦協定後仏軍の優勢が続き この英軍の敗北が百年戦争の帰結となる |
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『大トロイ陥落の聖史劇』が シャルル七世に捧げられる |
ジャック・ミレが仏人のトロイ起源説を初めて舞台化したもので2700行からなり 上演に四日を要する大長編だった |
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英国政府が、トルボットを指揮官に 英国寄りだったガスコーニュ人の部隊の 遠征軍を派遣 |
英国寄りだったガスコーニュの住民は彼等を歓迎し仏守備隊に対して蜂起 シャルル七世はこれに激怒しガスコーニュの背信に対しかなりの大軍を徴募する |
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パリ大学の医師に妻帯が許可される | 1110年に設立されたパリ大学は俗人の学校であったが医学者は聖職者だった為 独身である事が要求されていた |
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一連の攻城戦開始 | ボルドー市民に追い出されたビュローはもとの砲兵隊管理者に戻りボルドーへの 侵入路確保に動く |
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サラセン帝国軍が コンスタンティノープルを占領 |
首都がイスラム勢力のオスマントルコ支配下となり東ローマ帝国(ビザンティン帝国) は滅亡する これを機会にフランスやブルゴーニュでトルコ遠征の機運が高まる |
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ジャック・クールに判決 | 莫大な罰金の支払い、財産の没収、追放などの判決は裁判官ではなくシャルル七世の 名で下された しかし長期にわたる資産調査の間にローマに逃亡し結局刑の執行は されなかった |
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英軍のトルボット、ボルドー出発 | カスティヨンの駐留部隊を救援する為だった | |||||
トルボット、仏軍の分遣小隊を 攻撃 |
仏軍全体が敗走したと勘違いして深追いし、愚かにも要塞化した主力部隊を攻撃して 返り討ちにあい全滅する |
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カスティョンが降伏 | しかしまだ英国寄りの多くの町が抵抗を続けていた | |||||
ブルゴーニュ公 ヘントの反乱を鎮圧 |
市民は「下着に裸足」という苦行者の姿で謝罪した | |||||
カディヤック陥落 | 守備隊は八日間の重砲攻撃に絶えたが無条件降伏 シャルル七世は守備隊長の 処刑を命ずる |
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ボルドーへの講和交渉開始 | 外周はすべて陥落したがボルドーは強力な防備を固め、まだ約三千名の英軍駐留部隊 が残っていた |
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ボルドー市がフランスに降伏 |
結局蔓延する飢餓と病気から希望を失い譲歩する 賠償が科せられ自治権を喪失し 反乱の指導者の一部が流刑となったが大きな損失は免れた 結果英国の支配下地域は カレー市を残すのみとなった |
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『オルレアン攻囲の聖史劇』上演 | ジャンヌ・ダルクの名誉回復の気運が高まり彼女と共に従軍した元兵士達も参加し 制作、上演された |
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善良公、「雉子の宴」を催す | リール |
中世の豪奢を象徴するといわれるこの有名な饗宴はコンスタンティノープルを占領 したトルコを討伐する為の十字軍決起集会であったが、結局遠征は実行されなかった |
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シャルル七世、パリ高等方院を改組 | ? | 高等法院に伝統的な三院制(大審院、予審院、掌請院)を復活させ各地方慣習法の 編纂を命ずる |
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シャルル七世、アンリ・ペイヨに 赦免状を出す |
アンリ・ペイヨは「平民の貧しき蹄鉄工」 姉妹の瘰癧を「王の力」で治療して もらおうとしたが家来達に罹患を否定されて門前払いを食い「王と王妃に呪いあれ」 と叫び国王夫妻を狂人呼ばわりする等々の悪態をついた 結局はこの無礼の赦免状を 得たが「かなり高価」な贖いをする羽目になった |
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教皇カリトゥス三世がジャンヌ裁判の やり直しを命じる勅書を出す |
? | ジャンヌの遺族から裁判のやり直しを求める請願書が先代の教皇ニコラウス五世に 提出されていた |
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仏司法上、最後の決闘裁判が行われる | 裁判の決着を決闘でつけるというのはそれまではよくある事だったが、わざわざこの 為に当地を訪れた善良公があまりの野蛮さに衝撃を受け、以後この方法を禁止した |
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善良公、年代記の執筆を命じる | 修史官に任命され「年代記」を書いたシャトランは、善良公の側近で役人として だけでなく儀式の演出等に活躍した 「年代記」はブルゴーニュ公と仏王を中心に 叙述されている |
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ジャンヌの公式復権裁判開始 | ノートルダム寺院 |
請願書を出していたジャンヌの母イザベルには二人の息子の他、多数のオルレアンの 市民が付き添った ジャンヌの為に彼女を知る人々百五十人を越える証人が証言した |
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アランソン侯、大逆罪に問われる | ? | イングランドとの同盟を画策した容疑でデュノワ伯ジャン・ドルレアンに逮捕された | ||||
ジャンヌ・ダルクの名誉回復 |
裁判記録を再検討し、前回の裁判の教会宣告は破棄され教皇もこの再審結果を公式に 承認した 1909年4月18日、教皇ピオ10世により副者に列され1920年5月9日に教皇 ベネディクト15世により列聖される |
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シャルル七世逮捕を計画するが 露見し、ブルゴーニュ公領に逃亡 |
? |
父王に親王領ドフィーネを没収され大軍で攻められ服従を要求されて、十数人の手勢 だけをつれてブルゴーニュ善良公のところへ逃亡する その計らいでブラバントに 滞在する事になる |
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父シャルル七世に手紙を書く |
「ブルゴーニュ公の十字軍参加表明に共鳴し追従する」という反対しにくい口実を 持ち出して煙に巻こうとした この時シャルル七世は義弟にあたる善良公について 「やがて自分の雌鶏を食べる狐(ルイ)を飼っている」と苦々しげに語ったと いわれている |
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ブルゴーニュ公親子、大喧嘩 |
原因は善良公が以前の命令を変更しサンピ卿を侍従長に任命するように言ったのを 息子シャルル(のちの突進公)が拒否した為 激昂した父親から息子を守ろうと 母である公妃が割って入りシャルルを逃がした |
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善良公、森で遭難しかける |
ルイはシャルルを伴い、善良公を訪ねて不和をなだめようとするが善良公はルイの 依頼から逃げようと単身馬に乗って抜け出し森に迷い込んでしまう 結局仲裁は 不成功に終わるが、こうしてルイはブルゴーニュの宮廷に落ち着いていた間に公国 全体を内部から詳細に観察していた |
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マリー・ド・ブルゴーニュ誕生 | ? | 母は2番目の妃イザベル・ド・ブルボン 当時としては例外的に愛妾を持たなかった 突進公の唯一の相続人であった |
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パリに給水用の水道が作られる | - | |||||
シャルル七世、マインツに ニコラ・ ジャンソンを派遣 |
ジャンソンはシャンパーニュ出身でトゥールの造幣所の熟練彫金師 活版印刷の 実態調査の為マインツに派遣されフランス人初の活版印刷技術者となる |
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シャルル七世、法王ピウス二世に 使節を送る |
使節は法王の前で天からフランス王の血統に授けられたという香油を入れた聖瓶 同・百合の花の紋章、同・王旗に与えられた治癒能力を弁じた |
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父シャルル七世に手紙を出す | <
手紙を届けたのはルイの準騎士で侍従のボオヴォアル ルイに献身的に尽し信任 された 即位後は枢密顧問、ルーアンの大法官等になり側近として重用された その名は多くの記録に残されている |
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シャルル七世 ブルゴーニュ善良公と和解 |
五月から六月にかけて交渉を続けていたシャルル七世はブルゴーニュ公との戦争回避 の決断をする 善良公に「王太子の預かり賃」を支払う事にして和解した |
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シャルル七世死去(58) |
ルイによる毒殺を恐れ食べる事を拒否して餓死したとも言われているが実際は食物を 摂取する事ができなくなった為である ルイは喜びを隠そうともしなかったがこの事 については特に何も言わなかった 帰国の途中に追悼ミサを上げたがその弔意は形 ばかりのものだった |
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フランス国王として即位 | 戴冠式のふるまい目当てになだれ込んだ民衆が祭壇に殺到して参列者は椅子に 押し付けられ、ぎゅうぎゅうの目にあった |
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善良公と共にパリに入城 |
ジャン・ド・トロワの年代記にはパリ市の催した賑々しく華やかな歓迎の様子が 詳しく記されている 一方王妃はその貧窮状態の為、式典に相応しい乗馬を用立て られず公妃から借りるという有様で実質は新国王のお披露目というよりも国王を 凌駕する公の権勢を見せつけるものであった |
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放浪の詩人、フランソワ・ヴィヨン 恩赦令で出獄 |
・ ロワール |
オルレアン司教チボー・ドーシニーによって館付属の塔の地下牢に投獄されていたが 同年九月に新王がトゥールへ向かう途中にマンを通過した際「すべての囚人が解放 される」という慣習により釈放された |
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カタロニア議会宛に弔問書簡を送る | アラゴンの王子ドン・カルロス・デ・ヴィアーネの死去にあたり、英仏の王のように その遺骸が「瘰癧治癒」の奇跡を起こしたという事へ言及している |
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シャルル七世時代の重臣達を 片付け始める |
父王に幽閉されていた代父アランソン公ジャン二世を釈放し名誉を回復させる しかしその時に付けた条件にアランソン候が同意しなかったので再び逮捕する また助言者であり父王との仲裁役をしていたデュノワ伯とも悶着を起こす |
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ブルージュの国本勅諚を廃止 | 教皇の影響を排し王権を強める為の勅令だったが教皇庁はこれを承認せず即位と 同時に廃止を余儀なくされる |
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長女アンヌ・ド・ボージュー 誕生 (〜1522) |
ルイに生き写しと言われるほど有能で聡明な彼女は後に夫と共に弟シャルル八世の 摂政を勤める事になる |
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バイヨンヌ条約 | カタロニアの鎮圧の為にアラゴン王フアン二世が協力を要請 その代償としてルション、セルダーニュを割譲させる 事実上ルション全土が 仏王軍の支配下になった |
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オルレアン公ルイ (のちのルイ十二世)誕生 |
父はオルレアン公シャルル、母はマリー・クレーヴ 代父はルイちゃん | |||||
フランソワ・ヴィヨン 奉行所の牢獄に収監される |
パリ |
窃盗事件に関与した疑いだが、過去の名ヴァール寮への強盗事件の露見もあった 結局被害者の神学部に賠償金の120エキュを三年の分割払いにするという誓約書を 出させられ7日に釈放された |
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サン・ミッシェル修道院に巡礼 | サン・ミッシェル< | 最後まで英国軍に屈せず戦い抜いた事に敬意を表して紋章に金の王家の百合を三個 付ける事を許可し、六百エキューの金貨、サン・ミッシェルの金の小像を寄付した |
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『当世一百新話』が善良公に 献上される |
『ふらんすデカメロン』という名前で知られるこの小話集はボッカチオの『デカ メロン』を愛読していた善良公の命令で編まれたもの この序文にある「殿下」 とはルイを指すという説は誤りであるが語り手の中にルイの家臣達も何人かいる |
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フランソワ・ヴィヨン パリを追放される |
パリ | 前年の暮れに傷害事件に関わり死刑判決を受けるが上告し10年の所払に減刑された | ||||
生母マリー・ダンジュー 死去 (1404〜) |
不実な夫に絶対の信頼と尊敬を寄せ、慎ましさと謙遜で仕え、11人の子をなすも その大半は早世した さらに夫の愛人問題、夫と息子の不和などその生涯は決して 安寧なものではなかった |
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ソンム川流域を手に入れる | ブルゴーニュ善良公から購入した | |||||
フィリップ・コミーヌがシャルル (後の突進公)の楯持ちとして出仕 |
「馬に乗れる年齢」になった時に当時シャルレー伯だったシャルル突進公のところに 連れていかれ近習に加えられた |
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諸公達により公益同盟が結成される |
メッツを服従させたりミラノに干渉しブルゴーニュの同盟から手を引かせたり また父王が重用した諸公達を解任したりした その結果、諸公達はルイに対して 結束して反旗を翻す ブルターニュ公、デュノワ伯、ブルボン公、ルイの実の弟 であるベリー公シャルル・ド・フランス等にシャロレー伯シャルル(のちの突進公) が加担したもので「七公、十二伯、二卿、一司令官、五万一千の兵が新王ルイと パリ市に対して立ち上がった」といわれる |
|||||
シャルル(後の突進公)にパリを 包囲される |
− | |||||
次女ジャンヌ・ド・フランス 誕生 (〜1498) |
オルレアン公ルイ(のちのルイ十二世)の妃となるも離婚される その後ブールジェに隠棲しその余生を信仰に捧げ、のちに福者に列せられる |
|||||
郵便制度を施行、郵便馬車を走らせる | 道の舗装がまだ不完全で最速でも一日四十キロが限界だった また貴族達は自分自身 で飛脚を雇う事の方を好み現在のような全国的な郵便網のようにはいかなかった |
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リヨンに大市開催の特権を与える | ジュネーブの大市に対抗できるような魂際商業地にするのが狙いだった | |||||
狩猟の独占を王権に帰属させようと計画 | 貴族達との争いが起き結局「王と貴族のみ」に許される特権とする事で決着した | |||||
モン・ル・エリーの戦い | ブルゴーニュ軍と互角に戦うも敗北 | |||||
ブルゴーニュ善良公が退位 | 善良公フィリップは六十八歳になったのを機に息子のシャルルに家督を譲る事にした | |||||
コンフランの和約 | 1463年に購入したソンム川流域を返還させられコンフランおよびサン・モール条約 により公益同盟の諸公達の要求をすべて受け入れ仕方なく和解する これと同時に 公益同盟は解体する |
|||||
弟シャルルにノルマンディー領を譲渡 させられる |
− | |||||
トマス・バザンを追放 | トマス・バザンはリジウー司教だったがルイの不興を買いトリーアに亡命 | |||||
財務官ジャン・プレーにランジェーの 城を作らせる |
ローマ時代から砦のあった場所で、中世的な装備が現存する実用的な城塞である のちにここでシャルル八世とアンヌ・ド・ブルターニュの結婚式が行われた |
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ペスト禍を避けオルレアンに避難 | ジャン・トロワの年代記によると四月から九月までのペストの死者は四万人 | |||||
弟のノルマンディー領を奪還 | − | |||||
絹織物マニファクチュアを創設 | 国王直接指導による商工業育成策だったが、市民層の反対にあい、後にトゥールに 移転させられる |
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突進公、ディナンの町で大量処刑 | かつて17回の包囲攻撃に耐えてきたディナンだったがこの時代に発展した攻城砲列の 力でたった一週間の砲撃で陥落してしまった この時、候家に反抗的な町の名士達 800人を溺死刑にした |
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43 | サン・ドニへ巡幸 | 『醜聞年代記』中の「三人の大悪人」が恩赦された | ||||
43 | 手袋製造業者に労働時間延長の許可を 与える |
冬は午後の四時か五時が終業時刻とされていたが親方達は繁忙期と職人達の怠業を 理由に時間延長を訴えた |
||||
43 | 旗印の王令発布 | 地区制の都市市民兵隊を廃止し、パリのコミューンを六十の首都防衛の軍事組織 として16〜60歳のすべての組合員を所属させ、それぞれの隊にそれぞれの旗印を 持たせた 国王の家来は六十一番目だった |
||||
シャルル善良公、死去 |
善良公、または「おひとよし」とも言われた彼だが晩年の贅沢で乱れた生活で心身 に異常をきたし脳溢血で死亡 ブリュージュではたくさんの人が彼の葬列に並んだが リエージュの民衆は「歓声を上げて地獄に落ちろとばかりに死者の似姿を焚火の中に 投げ込んだ」そうだ |
|||||
市民兵を観閲する | タントワーヌ門前 |
バスティーユからコンフランまで並ぶ四キロにおよぶ三万をくだらない武装した首都 の防衛を担う数万人の職業団体である彼等は、兜をかぶり中央に白十字と各組合の 紋章を付けた旗印を持っていた |
||||
リエージュ市民軍、突進公の弾圧で壊滅 | ブルステム |
ブルゴーニュ軍の略奪無法放火で市は破壊されつくす しかしこの時城壁を破壊 された事で防衛力が低下したその結果、後のブルゴーニュ軍の敗北につながった |
||||
末 | フランドル諸都市の公使達が館に 戻ったブルゴーニュ公を出迎える |
リエージュ市での大虐殺等々の悲惨な運命を目の当りにした彼らは「卑しく へつらいつつ」屈辱的な服従行為を申し出る事で公に恭順の意を表した |
||||
全国三部会を開く | ノルマンディーが王領である事を認めさせる | |||||
突進公、英国王エドワード四世の妹 マーガレット・オブ・ヨークと再々婚 |
? |
最初の妃はルイの姉カトリーヌ王女、二人目はブルボン侯女イザベルであったが どちらにも先立たれていた この記念の馬上槍試合に選ばれた「25人のブルゴー ニュの騎士」の一人にフィリップ・コミーヌがいた |
||||
狩猟の会の名目で突進公との和解交渉 ペロンヌ会談 |
和解交渉と同時に画策したリエージュ市の蜂起が早過ぎて陰謀が失敗し 突進公の捕虜 にされるが公の顧問官で侍従であったフィリップ・コミーヌを懐柔して危機を脱する |
|||||
突進公 リェージュを蹂躙 | 公に対して蜂起したリエージュの町は四日間に渡る激烈な市街戦の果てに 壊滅させられた |
|||||
1469 | アラゴン、英国、ブルゴーニュが同盟 | 1462年のバイヨンヌ条約のごたごたもからみ三者が結束 | ||||
都市ケルンがブルゴーニュ公に 詫び状を入れる |
公の支配下の都市への「締め付け」があまりに苛烈だった為、リェージュからの 避難民(その多くは女子供を含む哀れな人々だったのだが)を受け入れた事を謝罪した |
|||||
アンジェ大司教ジャン・バリューと ヴェルダン司教ギョーム・ド・ アロークールが謀反を企てる |
? | ブルゴーニュ公への請願書を持った彼等の密使が道中で立ち往生し逮捕された為 両名がブルゴーニュ公に内通していた事が発覚した |
||||
上記の二人を召還し逮捕し投獄 | − | |||||
サン・ミッシェル騎士団を作る | 最高位の諸公達から選ばれた騎士団員に対し金の貝殻を紐で結んで作った首飾りを 贈った |
|||||
弟ギュイエンヌ公シャルルと和解 |
シャンパーニュの代りにギュイエンヌで我慢させる この時、リジューの司教が ノルマンディー公領との婚姻の印(領有権の象徴)としてシャルルに与えた指輪を 諸公の眼前で鉄床上で打ち砕かせた |
|||||
指物師アンリ・ド・ヴィーニュ 王の為にビリヤード台を制作 |
王の帳簿に記載されたこのビリヤード台が現在確認されている最古の記録である | |||||
毛織物産業を全国で統制する | - | |||||
オリヴィエ・ネッケル、侍従床屋となる |
フランド生れの彼はルイに非常に気に入られ、ネッケルからル・ダンという姓に 変えムラン伯爵となり部屋付侍従長、サン・カンタン地方総督にまで出世する ルイの並外れた寵愛の一方、その悪行は甚だしくルイが自分の死後も息子の シャルル八世に彼の行く末を頼むとの遺言があったにも関わらず高等法院で 死刑判決をうけ1484年絞首刑に処せられた |
|||||
1470 | アンジェ枢機卿監禁用檻の 作成を命じる |
召使頭ギュイヨン・ド・ブロックに命じ70リーブル・トゥルノアの支出を認める | ||||
シャルル八世誕生 | − | |||||
ペロンヌ条約を破棄 | トゥールの名士会で1468年に仕方なく譲歩した条約を反古にする | |||||
ポルトガル王アルフォンス五世を迎える | ポルトガル王の宿泊先はプルヴェール通りの香辛料商エルブロの屋敷 当時の香辛料を扱う商人の隆盛を伺える |
|||||
フランドルとの国境を封鎖 |
仏の市場に大きく依存していたフランドル地方が経済封鎖で飢餓状態になるという 危機感を持たせ、ブルゴーニュの臣下が反乱を起こすのを煽ろうとした |
|||||
ブルゴーニュ公の配下にあった ソンムの諸都市と密かに同盟 |
サン・カンタン、アミアン、アブヴィル諸都市を突進公と戦わせ、その力を弱めよう とする作戦だった |
|||||
47 | パリ大学ソルボンヌ構内に印刷工場が 作られフランス初の活字印刷本が誕生 |
王の印刷事業への財政援助の一環で、ルボンヌ大学の学長で修辞学教授の後、ルイの 大使や法王シクストゥス六世の侍従を務めたギョーム・フィシェがドイツから三人の 印刷工を連れてきた この本はイタリアの修辞学者であるガスパリーノ・バルツィザ のラテン語『書簡集』でフランス・ユマニズムの誕生を告げる記念碑的作品でキケロ 風の優雅な書簡文の模範とされた |
||||
1471 | 聖ヨハネの火祭りに参加 | 広場 |
国王の参加の記録はこの時が初見 この時に燃された残滓は幸運のお守りとされ 人々が持ち帰った |
|||
英国王エドワード四世が突進公と組み フランス再攻を決意 |
両者はロンドンでフリップ善良公とヘンリー五世の同盟を復活させる条約に調印する | |||||
ルイの弟シャルルと突進公の娘マリーとの縁談が持ち上がる | これを軸に王弟、サン・ポル伯、ブルゴーニュ公の陰謀が進められていた | |||||
バザン「フランス史」執筆開始 | 72年にかけてシャルル七世、ルイ11世の年代記を綴る | |||||
鉱山総長官を新たに任命 | 鉱脈所有者への優遇策を実施 工業先進地域のドイツから技術者の移住を促す | |||||
教皇シクストゥス四世との
同意書に サインし教皇権を認める |
信心深い事でも有名だったルイは教皇と深い親交を持ち主な聖職碌を全て与えた | |||||
突進公の娘マリーと婚約中であった 弟シャルル・ド・フランス病死 |
アミアン、サン・カンタンを餌にブルゴーニュ公と表面的に和解 ギュイエンヌと ブルターニュを巻き上げる |
|||||
シャルル突進公、ボーヴェー攻撃に失敗 |
突進公の残虐な攻撃は逆に相手の闘志をかき立てる事になった 結局町を守った ジャンヌ・アシェットの伝説が残っただけでブルゴーニュ側にはこれといった戦果 はなかった |
|||||
フィリップ・ド・コミーヌを 「お持ち帰り」 |
七日の夜から八日未明に口説き落としたらしい 以降最も重要な側近かつミニョン として終生寵愛した 『突進公の伴侶』とまで形容された彼が所有していた財産は 突進公にすべて没収されたが新しい『主人』となったルイから物心両面でその損失 以上のものを得た |
|||||
シャルル突進公と和平 | - | |||||
ブルゴーニュに宣戦布告 | ブルゴーニュが拡大している間にランカスター家と同盟したり、スイス誓約同盟 とも密約を交わすなど、反ブルゴーニュ包囲網を密かに張り巡らしていた |
|||||
ボルドーの三身分に上納金を要求 | ボルドーのサン・タンドレ大司教座参事会は聖職者は金銭負担の義務はないので 代りに祈りと祭典としての行列で<ある「総行列」をすると回答した |
|||||
サン・タンドレ大司教座参事会 王に感謝する「総行列」執行を決定 |
親英国的なボルドーへの懐柔策から、王がシャルル七世に左遷された元ボルドーレ 大司教ベイ・ベルラン列聖運動の援助として、調査書を受け取る使節を派遣した事 への感謝の意を示そうとした |
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アルマニャック伯ジャン五世殺害 | アルマニャック伯は突進公の従弟 妊娠中の彼の妻の目の前で殺させたと 噂されている |
|||||
アランソン候領を併合 | ルイの代父アランソン候ジャン二世は獄中にあったので彼の妻マリ・ダルマニャック が死ぬと大急ぎでアランソンの町に乗り込み王国に併合する |
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シャルル突進公 「ヘレル候」に封ぜられる |
突進公はブルゴーニュ家が善良公の代からドイツ諸公の会議体である「帝国国会」 の有力メンバーでもあり「ドイツ人の皇帝兼ローマ人の皇帝」である神聖ローマ 皇帝フリードリヒ三世に対し「ドイツ人の王」兼「ローマ人の王」の地位を要求 したがルイに働きかけられていた皇帝の機嫌をそこねてしまいフリードリヒ三世は この晩から翌25日にかけて事前の通告もなく折衝の場を立ち去る 結局突進公は 「へレル候」の肩書きしかもらえなかった |
|||||
それまで「ヒポクラテスの誓い」により 禁止されていた膀胱結石の摘出手術を 医師ジェルマン・コローに許可し自らも 立ち会う |
墓地 |
連続強盗で絞首刑の判決を受けたムードンの射手が議会に上訴 男が処刑よりもこの 病気で死ぬ可能性の方が高いとして医師達に生体解剖という形式で手術をさせて 欲しいと陳情され、被験者である射手の同意を前提に許可 手術は無事に成功しルイ の命令で術後にも十分な治療が行われ二週間以内に完治 この射手には命と健康、 財産と自由が与えられた この手術は通常の治療として行われるようになる |
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コンスタンツ永久同盟結成 | グルノーブル司教ジョスト・ド・シルナンがお膳立てしたものでスイス諸都市が ルイとも同盟し突進公に対抗した |
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突進公、ブルゴーニュ王国宣言 | ブルゴーニュはフランスによって公領という扱いをされていたが今後は王国として 復興するという意思表明を臣従の誓約を受ける場で宣言した |
|||||
代父アランソン候ジャン二世に死刑判決 | パリ高等法院で新しい裁判が開かれ、死刑判決が下されるが執行はされなかった | |||||
エドワード四世が突進公と同盟 | エドワード四世と突進公がフランスに対する共同戦線を張りフランスを分割領有と するという同盟条約を復活調印 |
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エクリールの戦い | ルイの支援を受けたスイス諸州、バーゼル、コルマール、ストラスブール市などの ライン上流の諸都市連合軍がブルゴーニュと戦う |
|||||
実在論支持の王命 | パリ大学において唯物論者と唯名論者両派の抗争に決着を付けようと実在論を支持し 唯名論者の研究を禁止する |
|||||
ジャン・アルディ処刑 | ブルゴーニュ公の為にルイを毒殺しようとした罪でパリの街頭で何度も繰り返し 拷問されたあげくに四つ裂きの刑に処されその首は槍に刺され晒された |
|||||
突進公、ノイスを包囲 |
「夏であれ冬であれ人々を絶えず戦に駆り出し、難儀と出費を強いた」と後に コミーヌが書き残す事になる公の軽挙妄動による大損害は徐々に積み重ねられて いった |
|||||
シャイヨの采地を寵臣コミーヌに 与える |
- | |||||
ミラノのスフォルツァと突進公が モンカリエリ条約を締結 |
ルイの妹でもあるサボワ公夫人イヨランドがミラノとブルゴーニュの接近を 密かに画策していた |
|||||
三人のドイツ人印刷技術者に フランス国籍を与える |
1470年のフランス初の活字印刷本誕生につくしたマルティン・クランツ、ミハエル・ フライブルガー、ウルリッヒ・ゲーリングが「日頃の文化への貢献」を認められた |
|||||
突進公との休戦協定が失効 速攻で戦闘開始 |
ソンム、アルトワ、エノーを占領 | |||||
英国王エドワード四世 カレーに到着 |
妹のブルゴーニュ公妃マーガレットの出迎えを受けるが義弟が現れない事に苛立った エドワード四世が突進公に会えたのは一週間後の14日だった |
|||||
ポーヴェからクレイユを通り コンピエーニュにつく |
近づきつつある英国・ブルゴーニュの連合軍に対抗する為各地を回り軍の増強を図る その間もランスの防備の補強を進める者達を督励する またフランスとブルゴーニュ のどちらに付くかを決めかねている諸公等(含英国側!)とも秘密裏に交渉を進める |
|||||
英国王エドワード四世とピキニ条約締結 | たった一日のうちに提案され受諾され起草され締結され調印されたこの条約により 長期に亘った「百年戦争」は金で清算され完全終結した 突進公は(英語で)義弟の 英国王を激しく罵倒したがもはやルイと「友好」の絆を深めたエドワード四世は同じ 調子で罵倒し返し、以降ブルゴーニュは英国の協力を失い孤立する |
|||||
ブルゴーニュと九年間の休戦条約 | 双方の「裏切り者」の赦免が取り決められたが突進公はかつて「深い寵愛を与えて いた」自分を捨てて仇敵のルイの元へ走ったコミーヌを決して許さず彼だけはこの 協定から除外した |
|||||
ルイ・ド・リュクサンブールを 大逆罪で斬首刑 |
広場 |
仏元帥ルイ・ド・リュクサンブールはサン・ポル伯でニイ伯もとは金羊毛叙勲騎士 だったがルイに鞍替えした 1465年に仏王国筆頭元帥だったが英国王や突進公とも 関わりルイの側近コミーヌに警戒されていた 結局どちらにも見捨てられフランス側 に引き渡され高等法院で死刑判決を受けた 彼がジャンヌ・ダルクを英国軍に売り 渡したジャン・ド・リュクサンブールの甥だった為、人々はジャンヌを死に追い やった数々の者達の悲惨な最期を思い起こした | ||||
? | 52 | 突進公 スイス・グランドソン要塞を攻撃 |
? | 二万五千人と見積もられる傭兵を引き連れていった 勝利後、敵側の四百人を 絞首刑にし他は溺死刑にした |
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突進公、スイス軍に大敗 | 突進公と二万人のブルゴーニュ軍は一万八千のスイス軍に不意打ちされ大砲500門 だけでなく帽子、剣、公が常に身につけていたダイヤモンド「サンシー」、銀器、 私印の母型等を奪われる |
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モラーの戦い | ブルゴーニュ軍が再結集できずにいるうちにスイス軍に攻撃されパニック状態に なり壊走 グランドソンの戦いよりも多い八千〜一万人もの戦死者が出た |
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突進公、サボワ公夫人イヨランド (ルイの妹)親子の逮捕を決意 |
イヨランドは今まで兄のルイに対抗しサボワ公亡き後、子供の摂政として突進公に 好意的だったがここにきて煮え切らない態度を示した為、突進公はサボワを手の内に 収めようと試みる しかし彼等は仏に逃亡してルイと和解 他の同盟者達もフランス 寄りに方向転換し始める |
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代父ダランソン公ジャン二世獄死 | − | |||||
教皇庁、シャルルマーニュを聖人として 公式に認め崇敬を定める |
ドイツ皇帝フリードリヒ1世は1165年の時点ですでに彼を聖人と認めていたが カトリック教会はまだ正式に列聖していなかった |
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パリ周辺で狼大発生 | この一年間だけで八十人以上の人々が狼に食い殺された | |||||
ナンシーの戦いで突進公敗死 |
公の使命を受けた傭兵隊長カンボンバッソ伯は最後の最後で戦線離脱し突進公の持ち 物は戦利品しとて勝者達の間で分配される 上衣はシュトラルスブルクの大聖堂に、 杯はハーゼルに戻され、指輪はミラノ公、そしてルイは公の甲冑を手に入れた 突進公はロレーヌ公ルネとの交戦二日後にサン・ジャンの池の凍った泥土の中で 「裸で狼に半分食われた遺骸」となって発見された 遺体の損傷があまりに激しく 判別の為に侍医が呼ばれモンレリーの戦いでの傷跡で身元が確認される この知らせ を聞いたルイは「歓喜し顔色の定めようを知らないほど」で食事中もずってその話を し続けた この直後にコミーヌをアブヴィルに派遣する |
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ソンム河畔アブヴィルの町が降伏 | 王家との間に協議書を取り交わしその支配を受け入れた | |||||
突進公の妃と娘がメッヘレンの 会計院に連名の命令書を出す |
「突進公の生存」説を唱えフランドルの町々に支持を要請 | |||||
フランドル攻略開始 |
男児後継者がいない場合は公領は王に帰属するという取り決めを根拠として「突進公 の相続人マリー・ド・ブルゴーニュの権利を守る」という口実でブルゴーニュに侵攻 ガンに召集された議会はフランス王に恭順を表す |
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ブルゴーニュ諸公議会が開かれる | 王への臣従を決議 ただちに議会と会計院が復活される | |||||
マリー・ド・ブルゴーニュが ガンに入る |
フランドル女伯として恒例の入城式を行なう | |||||
アラス陥落 市民18名を処刑 |
マリー・ド・ブルゴーニュについてフランドルに行こうとしたアルトワ伯領の検察 長官ウダール・ド・ビュッシーを含むアラスの市民18名をエダンの広場で死刑に した 以前高等法院の長官になる事を拒否したビュッシーには後に特別命令を出して 「高等法院風の毛皮裏地のついた緋色の頭巾」を被せ韻文の理由書と共に同所で さらし首にする ルイは「物すごい冗談を飛ばしながら」この事を書き記した |
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エダンを陥落させる | - | |||||
ヌムール公 ジャン・ダルマニャック斬首 |
罪状は大逆罪 重要人物の処刑はこの場所で行われる事が多かった | |||||
マリー・ド・ブルゴーニュ結婚 |
マリー・ド・ブルゴーニュは突進公の遺児で唯一の相続人 姻戚政策で七回も婚約 した彼女は最終的にオーストリアの大公マクシミリアンと結婚 これによりオースト リアはフランシュ・コンテ、アルトワ、フランドル、ネーデルランドを手に入れる |
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ジャック・ド・ブレゼを妻殺しの罪で 投獄 |
ジャック・ド・ブレゼはノルマンディーの大行政官で、シャルル七世とアニェス・ ソレルとの間に生まれたルイの異母妹でもあるシャルロット・ド・フランスを妻に していた その不倫現場を発見し、その場で殺害した為投獄される その後釈放され ルイの娘アンヌ・ド・ボージューの狩猟頭に就任し在職中に死去 |
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スイス槍部隊の使用選択権を買い取る | ブルゴーニュ軍を打ち破ったスイスの槍兵隊の有用性に目を付け将来の紛争に 備えて独占契約を結ぶ |
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法王に使節団を送る | 使節は「フランス王家の紋章である天来の百合の花」に付与された奇跡の治癒を 施す霊力について演説をした |
ペスト禍鎮護の巡礼に参加 | コンテ地方 |
聖エドム・ド・ポリティに捧げられた巡礼行のひとつだった | ||
ディジョンに入城 | フィリップ・ポウ、ミシェル・ド・ショオジィ等、ブルゴーニュから離反した かつての突進公の重臣達もルイの家臣として同行していた |
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ギヌガットの戦い | フランス軍、オーストリア大公マクシミリアンに敗北 | |||||
ラ・ボワシエールのフランソワにフォン テーヌブローの土地と領主権を下賜 |
アルデーシュ県のラ・ボワシエールのフランソワは狼狩猟隊長官 人を襲う狼の被害 が多かったのと一般人には(有害獣であっても)狩l猟が許されていなかった時代に 狼狩りの役目は大きかった |
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スコットランド王ジェームズ三世から 使節が送られる |
後にアバティーン司教となるエルフィンストーンが派遣された | |||||
キャンジェイ候を入れる鉄の檻 作成を決定 |
シモン・ド・キャンジェイ侯はブルゴーニュ公の忠臣で、公の死後も戦い続けヴェル ダン・シュル・スールの砦でフランスの捕虜となる |
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アンジュー公ルネ死去 | アンジューを併合 | |||||
57 | キャンジェイ候を檻ごと町の入り口まで 連れて来る事を命じる |
トゥールの市長宅に置かれてあった檻は移動の度にわざわざ壁を壊して運び出された | ||||
自由射手隊を廃止 | シャルル七世によって1448年に創設された民兵隊だったがほとんど戦力に ならなかった |
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ルイの命令でヨーロッパで 最初の壁紙が作られる |
トゥール |
中国の慣習から発生したといわれる壁紙のアイデアは宣教師によってヨーロッパに もたらされた ルイはジャン・プールディジョンに命じ、五十巻の壁紙に青色の 背景に天使の絵を描かせプレシ・レ・トゥールを飾らせた |
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実在論支持の王命を撤回 | 1474年に唯物論を支持する王命を出したが強い反対にあい撤回する羽目になる 以降唯名論が支配的となる |
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アンジュー公ルネの甥 メーヌ公シャルル死去 |
メーヌ・ブロヴァンスを王領地に併合 | |||||
マリー・ド・ブルゴーニュが落馬事故に より死去 |
ガンの支配下にある議会はマリーの娘マルグリット・ドートリッシュがフランス王子 と結婚するという条件でフランスと和平条約を結ぶ |
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マクシミリアン1世の軍が仏軍に勝利 | ブルゴーニュ公国の遺産の帰属を両者が争った | |||||
サン・ジェルマンの大市開催を許可 | サン・ジェルマン |
それまではレ・アールで開かれていたがサン・ジェルマン・デ・プレ大修道院長が 敷地内での大市の再開を願い出て許され第一回目の大市は一週間開催された |
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アラス条約 | オーストリア大公マクシミリアンがフランスによるブルゴーニュ公領、ピカルディの 領有を認める |
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パオラの聖フランチェスコが プレシ・レ・トゥールに滞在 |
トゥール |
ルイだけではなくシャルル八世の精神的指導者となり大きな影響を与えた 1507年、同地で死去する |
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官房長に手紙の返事を書く | 以前不幸な知らせを持ってきた男に「二度と手紙を託さないでくれ」と依頼する 内容だった |
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死の床に倒れる | トゥール |
すでに数ヶ月前から浮腫に悩まされていた | ||||
ランスから聖瓶とバルサムを取り寄せる | トゥール |
臨終に際しランス大聖堂が王位継承の際に塗布する聖油と、聖母から聖マルタンに 授けられたと伝えられる香料を塗布する事で聖性を得ようとした |
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夜8時、死去 | トゥール |
直接の死因は脳卒中だった |
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