2018415日 信濃毎日新聞 朝刊記載

長野マラソン 20年目へ駆ける bT

視覚障害者ランナーも共に

「理解広がり 伴走者増加」

写真:長野マラソンに向け伴走者と練習を積む保科さんと井出和利さん

 

「みんなで、「えっ」と驚いたんだ」。15日に第20回記念大会を迎えた長野マラソン。佐久市の保科清さん(71)は

2010年の12回大会で視覚障害者の部が新設した当時を思い起こす。予想以上に早い実現に、驚きと喜びが込み上げたという。保科さんは15歳の時、視野が徐々に狭くなる「網膜色素変性症」と診断された。松本盲学校を経て、南佐久郡小海町の病院にマッサージ師として就職。43歳で走り始めた。10年後の2000年には、シドニーパラリンピックでマラソンの日本代表に。

04年のアテネ大会では5位入賞を果たすまでになった。競技に打ち込む傍ら、競技振興と伴走者の養成などを目的に1999年に発足した県視覚障害者マラソン協会に参加。会長を務めていた09年、長野マラソンの大会事務局を訪れ、視覚障害者の部の新設を求めた。すると、翌年からの実施が決まった。ただ、視覚障害者がマラソンの練習をしたり大会に出場したりするには周囲の状況を言葉にして知らせる伴走者の存在が欠かせない。保科さんは「以前は地元で伴走をお願いできる人も少なく、苦労した。国内大会では伴走に対する理解も薄かった」と振り返る。

01年、大分県で開いた別府大分毎日マラソンに出場しようとした時。伴走者が、日本陸上競技連盟の競技規則が禁止する「助力」に当たるなどとして最初は断られた。最終的にオープン参加が認められたものの、「視覚障害者がトラック競技および道路競技に参加する場合のガイドランナーは助力とみなさない」との文言が競技規則に加わったのはその後だった。

長野マラソンの視覚障害者の部には毎年20人前後のランナーが出場。一般ランナーとともにスタートを切る。「長野マラソンのおかげで視覚障害者への理解が広がった」と保科さんは言う。特に感じるのは伴走者の増加だ。保科さんには現在、練習の際、都合の付く日に伴走してくれる仲間が計10人ほどいるという。

きょう号砲

長野盲学校(長野市)の教諭で視覚障害のある中島茂典さん(34)=長野市=は、1年半前、県視覚障害者マラソン協会の練習に参加したのをきっかけに本格的に走り始めた。伴走をしてくれるランニング仲間ができ、練習したい時に携帯電話で探すと都合がつく人が付き合ってくれる。伴走者側から「今日はしるけど(一緒に)どうですか」と連絡が来ることもある。

中島さんは、「それまで、伴走者に気軽に練習に付き合ってもらえるなんて想像もできなかった」と話す。今回の長野マラソンは昨年に続き2度目の挑戦。昨年は26キロ地点で途中棄権したが、「今年はかんそうしたい」と力を込める。

今回も出場する保科さんは「視覚障害者にとって走りやすい環境が整った」と実感。障害の有無を超えたランナーの我が広がっている。

(おわり) 

 

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