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1969(昭和44年)年5月末の頃ブタ研は産声を上げました。 当初は、演出課、アナウンス課、技術課の三課でした。これが、ブタ研発足のキーワードです。
1967年(昭和42年)、日米安全保障条約の改定を三年後に控え、日本列島は政治の季節に入っていました。安保条約に反対する学生たちは先鋭化し、あちこちの大学で全共闘(全学共闘会議)が結成され、大学側と激しく対立していました。もっとも象徴的だったのが、東大全共闘と日大全共闘でした。明治学院大学でも、この年の春ごろから、授業料値上げ反対の声を皮切りに全共闘が結成され、大学内が騒然とし文連会に所属する各サークル内でも対立がおきました。全共闘系の学生たちに占拠されたヘボン館の出入り口は椅子、机などでバリケードが築かれて封鎖され、連日のように大衆団交といわれた大学側と学生との公開討論会が開かれ、授業も行われなくなりなりました。 構内では、一般学生を巻き込んでデモ行進が繰り広げられ、学び舎としての機能は完全に喪失されてしまいました。これに対し大学側は警察機動隊に出動を要請し、占拠していた学生たちを検挙、排除。その後、敷地全体を鉄板で封鎖、ロックアウトして事態の収拾を図りました。この状態は、少なくとも1971年に私たちが卒業したときにも続いていました。
そんな時代の中で、ブタ研は誕生しました。 設立メンバーの殆どが、放送研究会に籍を置いていた者です。放研も他の文連サークルと同じように、全共闘を対立軸に、サークル活動を体制改革の一環と捉えるグループと、それに反対して通常の活動の中で考えたいとするグループに別れ、主導権争いが起きていました。69年の春休み頃執行部が分裂し、それに伴い後者のグループが放研を去らざるを得なくなりました。 所在を失った学生たちは、ベルシバと呼ばれていた食堂(現在の法科大学院の教室になっているところ)のオープンスペースに、することもなく集まってきては時間をつぶしていました。そんな中で、誰からともなく「皆でなにかできないか」という声が出始め、さまざまな考えの最大公約数が「放研でやってきたことで何かする」でした。 当時の放研には、演出担当の編成、アナウンス、技術、ドラマ、の四セクションがあり、そこで経験してきたことを生かし、そこそこ仕事の量を確保できそうなものが、コンサートやイベントの企画や受注でした。 ブタ研の芽生えです。 前段が長くなりましたが、これがブタ研誕生の第一話です。 次回以降、照明課、装置課誕生の話、サークル規約に込められた、設立当初の方向性なども綴っていこうと思います。 |
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