扉の向こうの青い空 5
「思い…出しました。…私が、死んだときの事を…。」
小さく震えてそう言ったチヒロに、全員が驚きの声を上げた。
「私、レストランでアルバイトをしていて、…そこに向かうために大きな交差点を渡ろうとしていたんです。信号が、青に変わって…横断歩道を渡りました。」
一旦言葉を切って、再び話し始める。
「片側二車線の広い道路で…。信号が青なので、すっかり安心していて突っ込んで来た、トラックに…気付かなくて…。」
きゅっと唇をかみ締めた。
「ドンってぶつかって…、吹っ飛んで…、道路に叩きつけられて…、ゴロゴロって転がって…。」
零れだした涙を、ハボック少尉がチヒロの手からタオルを取り上げて拭いてやっている。
「自分の、血が、道路に……まあるく広がるのが見えて…。…痛くて気を失って…、…気が付いたら、真っ白な所にいたんです。」
「扉があった?…白い人型みたいなものも…。」
鋼のが聞くと、それにこくんと頷いた。
「それが言いました。『お前はもう死ぬ』って。」
「………。」
沈黙が流れる。
「私、『死にたくない』って…。」
それは当然だろう。生きているものならば、死を目前に提示されれば多かれ少なかれ躊躇する。ましてや、こんな女の子では…。
「そうしたら、『その望みを叶えるには、代価が必要だ』って言われて…。」
そしてチヒロは、その場でされたやり取りを言葉をとぎらせながらも懸命に再現し、説明してくれた。
当たり前に存在すると信じていた場所で、もう生きられないと分かった瞬間の気持ちとは一体どんななのだろう?
そして、恐らく自分自身の中でも消化しきれていない事態を初対面の人間たちに話して聞かせる精神的負担は…?
文句も言わず乞われるままに話をし、分かってもらおうと言葉を尽くす。
その一生懸命さに、思わず『もう、いいよ。』と言ってしまいそうになる。
「…『死にたく、ないんだろう?』と言われて、頷いていました。」
「生きたいと願ったことを、恥じることはない。」
私の言葉に少しほっとしたように、チヒロは口元を緩めた。
「恐らく君は自分自身の魂あるいは肉体を使って、自分自身を人体練成した、と言うことになるのだろうな。」
「人体練成?」
「こちらでは、禁忌とされている。そのことは他人には言わないほうがいい。」
「…はい。」
「君は、もう元の世界には戻れない…ということだね。」
「はい。私がこちらの…知らない世界へ来たということは、向こうの私は…多分、もう。」
死んでいる…ということか。酷かもしれないが、きちんと確認をしておかなければならない。
「死んだことになっているのなら、戸籍もないということだろうな。」
「多分。」
「恐らく肉体も…。」
「………。」
頷いて、うつむいてしまう。
再び室内が、シン…と静かになった。
頭の隅では『疑え』と何かが叫んでいる。
どう考えても信じられない話だ。
違う世界があるだって?真理の扉を通ってこちらへ来たって?自分自身を使って自分自身を練成したって?
けれど、チヒロの涙や表情を見る限り、嘘をついているとは思えない。この様子で嘘をつけるのなら、相当に訓練を受けた人間ということになる。けれど、そういう人間にはそれなりのニオイというものがあって、それがチヒロには無い。
「つまり、君は今日からこの世界で生きていかなければならないわけだ。」
一旦言葉を切って、ふむと考えた。
やりようは色々あるが、この子に不自由な思いはさせたくないなと思った。
ハボック少尉を自分のバリケードだと決めたのか、ぎっちりと服を掴んで離さないところは気に入らないが、つい手を差し伸べたくなる子だと思う。
決して美人ではないが、透明感のある子だ。わずかに茶色みがかった黒いセミロングの髪は、彼女の性格をそのまま現しているかのようにまっすぐだ。先程から涙に濡れがちなこげ茶の瞳も、にこりと笑えばかわいらしく輝くだろうし、何より彼女の笑い声を聞きたいと思う。
「出来る限りのことはしよう。…勿論、君の努力も必要となるがね。」
「はい。」
チヒロが頷いたとき。
「あっ。」
と、鋼のが声を上げた。
「さっきから、何か忘れてると思ったんだよなー。」
「何だね。」
「チヒロ、違う世界から今日来たのに、なんで俺のこと知ってんだよ?」
「あ゙。」
「君の事を知っているって?」
「そーだよ。俺のこと『鋼の錬金術師』って言ってたし。…バイト先の本屋で会ったとかって…。」
「あー。」
まずい、という顔になる。
「どういう、ことかな?」
にーっこり笑って尋ねると。
『えーとー。』と視線をさまよわせ、何故かハボック少尉を見上げて『どうしよう?』と目で尋ねる。
だから!どうしてハボック少尉なんだ?
「え…と…、何だか分かんないけど、全部言っちゃった方がいいと思うけど?」
チヒロの視線に困惑したのか、私からの怒りの波動が届いたのか、ハボック少尉はそうチヒロに言った。
「聞いても…あんまり、楽しくない気分になると思うんですけど…。」
チヒロはそう言って、困ったように首を傾げた。
「何だか分かんないけど、全部言っちゃった方がいいと思うけど?」
俺がそう言うと。
「聞いても…あんまり楽しくない気分になると思うんですけど…。」
と、チヒロは言った。
いや、懐いてくれるのは嬉しいんだけど…。大佐の視線が痛いんですが…。
多分大佐は、チヒロを自分の庇護の下に置くことにしたのだ。普段は結構冷徹に打算で動くくせに、一旦そうと認めてしまえば大佐はとことんまで自分の庇護すべきものを守るだろう。
それが、大佐とチヒロの両方にとって良い結果になるといい。そう思わずにはいられなかった。
「私は…嘘は…言っていません。」
チヒロは困ったように、けれどもきっぱりとそう言った。
「嘘は言っていないって?」
目を見開くエドワード。そして、アルフォンスが整理するように言った。
「確か、チヒロさんはさっき『去年本屋でアルバイトをしていて、そこで…』って言ったよ…ね。」
「はい。嘘じゃないです。」
「去年という事は、当たり前だが自分の生まれ育った世界にいたわけだね。」
「はい。」
しっくり行かない事態に全員の頭の中が?でいっぱいになったとき、チヒロが1つ溜め息を付いて言った。
「本屋って、本を売ってるじゃないですか。」
「そうだな。」
「その物語の表紙の絵が…。あ、もしかしたら宣伝用のポスターだったかもしれませんけど。その絵が、金髪で三つ編みの男の子で、片腕が機械で…。」
「俺!?」
「う、うん。」
「………。」
「題名が『鋼の錬金術師』って言う漫画だったんだけど…。あ、漫画って分かります?」
しーん。と静まり返った室内で、チヒロの問いに答えるものはいなかった。
「…つまり、…私たちは、物語…その、『マンガ』とか言うものの、登場人物だ…と?」
「はい。ああ、良かった。分かってもらえて。」
いや…おい、ちょっと待て…。
「本屋で売ってた!?」
エドワードが声を上げる。
「はい。…本ですから。」
「…いや、そうでなく…。」
「………。だから言いたくなかったんですぅ…。」
チヒロはそういう。
「私の世界の日本人の『荒川 弘』…だったかな?その人が作者です。その人の作品の中の世界…ってことですね。ここは。」
「作品の世界?」
「はい。……って言っても、実は私内容知らなくて…。」
「は?」
「友達にファンの子がいたんです。面白いから読めって言われていたんです。…けど、読まないうちに今日になってしまって…。」
申し訳なさそうにチヒロは言う。
「だから、証明出来るものは無いんです…。すいません。」
なんて、泣きそうな顔で。…お前、人のこと心配してる場合じゃないだろう、自分が一番大変なのに。
「すいません。気持ち悪いですよね、こんな話。言わないで済ませられるのなら、それで済ませたかったんですけど…。」
「や、聞いたの俺だしっ。」
「そ…そうですよ。チヒロさん。」
「そうだ。君は悪くない。大体どうして、『鋼の錬金術師』なのだ。『焔の錬金術師』でいいじゃないか。」
「いや、あんた。何言ってんスか。」
「そーだよ。問題はそこじゃねーだろ。」
「ボク等の下した決断って、物語で決められたシナリオって事なんでしょうか?」
アルフォンスの言葉に、ちょっと全員寒気がする。
「………。けど、どう考えても俺は俺だぞ。自分で考えて決断して、今ここにこうしてる。たとえここが物語の中であろうと、未来が分かるわけじゃなし。」
「確かにな。チヒロも作品を読んでいないというのなら、この先のストーリーを知っているわけじゃないのだろう?」
「あ、はい。ええとそもそも、作品中のどの辺りの時間なのかも…。」
「となれば、起きた事態に対して、我々は自分で考え自分で決断を下していく…という作業に何か変更があるわけじゃない。」
「そうだな。」
「…けど、不思議ですね。こうやってる姿もどこかで、誰かが見ているんでしょうか?」
見えるはずも無いのに、何とはなしに辺りを見回してしまう。
…と、中尉の冷静な声。
「これまでの生活と何かが変わるわけではないのなら、特に支障は無いと思います。」
あ、…言い切りましたね…。言い切ってくれちゃいましたね。
「誰に話したところで、信じてもらえるわけでもありませんし。この点については司令部内のみでとどめましょう。チヒロさんはただ『違う世界から来た』というだけで良いでしょう。」
そして、話を終わらせちゃいましたね。
「これから問題にすべきなのは、当面のチヒロさんの生活の保障と、中央への報告をどうするかという点です。マスタング大佐。」
20050612UP
NEXT
原作の雰囲気をなるべく残したいなあ。などと身の程知らずな挑戦を…。
重くなりがちな話の合間に、ボケとツッコミを入れて見ました。
こちらの世界から行ったチヒロがカルチャーショックを受けるように、あちらの世界の文化や技術水準は
なるべく原作の感じで…と思っています。