扉の向こうの青い空 7
先生にお礼を言って医務室を出ると、ここが天井のとっても高い建物なのだと分かる。
すれ違う人は皆青い制服を着ていて、軍の施設なのだなあと意味も無く感心する。
足元が少しおぼつかない上、キョロキョロと辺りを見回しつつ歩く私はつい遅れがちになる。そんな私にジャンさんは、荷物を持ってくれた上、
「どうせ行き先は俺が知ってるんだから、ゆっくりでいいぞ。」
なんて言ってくれて…。優しい人だなあ。
長く続く廊下を何度か曲がって、階段を二階へ上って、何だかどこら辺に居るのか分からなくなった頃。
「ここだよ。」
と大きな扉を開けてもらう。中に入ると立派な応接セットと大きくて立派な机…の上に大量の紙が積み上げて置いてあった。
「あ゙ー。又、溜め込んでる。」
ジャンさんの呆れた声。
「…もしかして、あれ、お仕事ですか?」
「そ、大佐はすぐサボるんだ。」
「…サボ…るんですか?…偉いんですよね。」
「まったくなあ。本気出しゃ凄げえ…はずなんだけど…。」
「は…あ…。」
そんな話をしているうちに、部屋の奥にあるドアを開けて大佐とリザさんが出てきた。何冊かの分厚い本を持ち出している。
「チヒロさん、こちらよ。ハボック少尉、バッグを。」
リザさんに続いて中に入ると、四畳半位の部屋にベッドと一人がけのソファと小さなテーブルがあった。
「マスタング大佐が使われるたびにシーツは取り替えてあるから。」
いえ、そこまで気にしませんが…。
「それと、こちらに…。」
とさらに奥のドアを開けると、小さな洗面台とトイレとシャワーが付いていた。
「タオルはここにあるものを好きに使って。」
「はい。」
凄い。これ『大佐専用』なんだ…。
「それじゃ、私たちは外で待ってるから、準備が出来たら出てきてね。」
「はい。」
…頷いたものの…。『準備』…って?
一応、トイレを済ませてみた。
鏡を覗き込むと少しへこんだ時の顔をした私が居た…。
駄目だよ。頑張らなくちゃ。この、何も分からない世界で、生きていかなきゃならないんだから!泣いてる…場合じゃないんだから…。だって、…もう帰れないだからね…。
ボロボロと出てくる涙。…もう!泣いてる暇なんてないんだから!
そうだよ。皆待ってる。
お金は大佐が出してくれるんだから…。もう、思いっきり使って、いっぱい服を買っちゃおう。今まで着てみたかったけど勇気のなかったものも買っちゃえ…って、こっちにそういう服があるか分かんないけど。
パンパンって両手でほっぺたを叩いて、気合を入れて。バシャバシャと顔を洗い、ポーチの中に入れてあった櫛で髪を整えて、リップを塗って…。
…あ、そっか。リザさん、こういうための時間をくれたんだ。
身だしなみを整えて。…うん、泣いてたなんて分かんない。
バッグは教科書とか入ってて重いから置いていこう。ハンカチと携帯をパンツのポケットに押し込む。
ピッとブラウスの裾を直して…、よし。買い物!
部屋を出ると、そのまま隣の『指令室』というところに案内された。そこには大佐の部下という人が他にもいて、ブレダ少尉とファルマン准尉とご挨拶。もう一人フェリー曹長という人が居るらしいけど、その人は今日お休みなのだそうで…。
ご挨拶を済ませたら、いざ買い物!
買い物にはリザさんとジャンさんが付いてきてくれた。(恐らくジャンさんは荷物もち)
大佐も行きたがって、少し駄々をこねていたけど(…あれは『駄々』だったよね)私が、
「え?大佐、お仕事が山積みなんじゃ…?」
と言うと、途端に視線が泳ぎだした。
「い、いや…あれくらい…私が本気になれば、どうということはないんだ…。」
「うわー、やっぱり偉い人は違うんですねー。もしかして、買い物から帰ってくる頃にはあの紙の山がなくなってたりして…?」
「勿論だとも!」
「わー、楽しみです!」
とか言ったら、『じゃあ、早速とりかかるか…』といいながら、大佐の部屋(『執務室』というらしい)へ入っていって…。
…何だか他の皆に、物凄く感謝された。…?何?
違う世界から来たという少女。チヒロと少しだけ言葉を交わしたけど、まるで人形と話しているようで少し不快な気分になった。
言われたことに、ただ『はい』と頷く。
自身の事情を説明する以外の言葉は『はい』と『すいません』がほとんど。ああ、ハボック少尉に言われて『ありがとう』が加わったけど…。
始終自信なさ気で…。『あなた大丈夫?』と言いたくなってしまう。
マスタング大佐の仮眠室から出てきたとき、少しスッキリとした顔をしていたので、ほっとした。そして、ほっとしたことで自分が相当彼女のことを心配していたのだと気づいた。だからこそ、『しっかりしなさいよ』と叱りつけたいほどの気持ちになったのだ。
ありがたいことに、大佐を机に戻してくれたので感謝しつつ、街へ買い物に出ることになった。(大佐からまとまった現金を受け取ってある。)
司令部の外へ出ると、チヒロは今まで以上にキョロキョロと辺りを見回していた。
彼女が元居たという世界とどのくらい違うのかは分からないけれど、何もかもが珍しいのだろう。少し待って。
「行きましょうか。」
と、声をかけて歩き出した。数歩進んだところで、ふっと後ろの気配が変わったような気がして振り返った。すると、先程とさほど変わらないところで、チヒロがしゃがみこみ石畳の地面を触っていた。
「どうした?」
ハボック少尉が尋ねている。
「…え…と…、硬いなあって思って…。」
そりゃ、そうでしょ。石畳なんですから。そう思ったが、少尉は自分自身が痛そうな顔になって、チヒロの正面にしゃがみこんだ。
「そうだ、かてーよ。チヒロんとこと一緒だろ?」
「うん。」
「こっちにも車は走ってるからな。…気を付けろよ。」
「うん。」
「うっし。」
ガシガシとチヒロの頭をなぜている。
…道路に叩きつけられたって言っていたっけ…。
ハボック少尉はよいしょと手を引っ張ってチヒロを立たせている。
「ハボック少尉。かわいいのは分かるけど、そんなにガシガシやったら髪がぐしゃぐしゃになってしまうわ。」
私が戻って少し高いところにあるチヒロの髪を直してやると、チヒロは嬉しそうに『ありがとうございます』と笑った。『すんません』と苦笑する少尉。
「さ、行きましょうか。」
チヒロは19歳ということで、そのくらいの年齢の子達が良く利用するという店へ取り敢えず行ってみた。
Tシャツやブラウス、ズボン、ワンピースなどを選ぶ。試着できるものは試着して、こちらでのサイズを確認する。
もしかして今までどおり、言われるがままの服をただはいはいと買い込んだらどうしようかと思っていたが、そこはさすがに女の子といったところなのだろうか。自分に合う色や形にはこだわりがあるらしい。
安めの店だったせいか、チヒロの好みに合ったのか、かなりのまとめ買いとなった。
「1軒めからやるなあ。お前。」
結局それらを全て持たされるハボック少尉は、そう苦笑してチヒロを見た。
「他にも見たい店があったら言ってね。」
リザさんはそう言ってくれて、『はい』と大きく頷いた。やっぱり買い物は楽しい。気に入ったデザインのものがあったのも嬉しい。お金のことを気にしなくていいのも良い。
「次は洗面用具…かしら…。」
なんてつぶやいているリザさんの後を付いていったら。…あ、何だか良い匂い。コーヒーと焼きたてのパンの香りだ。え…と、どこからだろう?キョロキョロ始めた私にジャンさんが気付いてくれて。
「んー?腹減ったかー?」
「えーと、…良い匂いが…。」
「腹が減るのは良い事だ。」
と、にっこり笑う。
「中尉、少し休憩しましょう。」
そうリザさんに声をかけてくれて、視線でお店を指す。あー、あそこか。
パラソルの付いた数個の丸いテーブル。オープンテラスのおしゃれなお店。日本のコーヒースタンドの店と少し感じが似ていて、入りやすそう。
ジャンさんとリザさんはコーヒー、私はミルクティとサンドイッチ。
「…美味いか?」
恐る恐る、味を確かめながら食べる私にジャンさんが聞く。
「はい、美味しいです。野菜の味が濃いみたい。」
「そう、良かったわ。」
リザさんも笑ってくれて。
何だか、お兄さんとお姉さんと買い物してお茶してるみたいで、嬉しくなる。
ふと。日本とは全く違う街並みに視線をやった。
あんな、エドワード君の腕…オートメイルだっけ?あんな凄い機械があるのに、街は昔のヨーロッパ(ヨーロッパなの?)みたいで、錬金術もあるんだよね。自分の手から漏れた青白い光を思い出して…。
変な世界。不思議な世界。
『鋼の錬金術師』ってどんなストーリーなんだろう?『面白いから、読んでみな。』って薦めてくれた友達。けど、『あれ、話が重くてね…』と言った友達も居た。その『重い話』は私にどう降りかかってくるのかしら?私はそれに耐えられる?
「食べ終わったわね。…行きましょうか。」
「はい。」
考えたって仕方ないよね。だってもう私はこの世界で生きていくしかないんだもの。
ただ、ここが物語の中の世界だと“知って”いるだけで、それ以外の何が分かるわけじゃない。
軍がどんなことをしているのか?人がどう暮らしているのか?錬金術ってどんなもんなのか?
まだまだ知らないことだらけなのに、心配ばかりしていても先に進めない。
私が知っているのは、東方司令部(というのだそうださっき居たところは)の人たちが優しいって事。街の服はかわいいって事。食事は結構美味しいって事。
そして色々なものの混じったこの街の空気の匂い。
あと、前の世界より空は青くて広いって事。
それから、歯ブラシとかコップとか化粧品とか色々と買い込み、さすがのジャンさんもかさばった荷物にうんざりとした顔になる。すいません、買いすぎでしょうか?
「ああ、チヒロさん。ここもだわ。」
リザさんが指さしたのはランジェリーのお店。
『勘弁してください。』というジャンさんを外で待たせ、二人で店内に入る。さすがにヌーブラなんて無いよね…。人のお金だし、あるなら挑戦しようと思ったけど…。
かわいいものってあんまり無くて、シンプルなものが多かった。そういうの嫌いじゃないからいいけど、レースとか付いてるのは無いの?店の奥に幾つかあるのは物凄く高いんだけど…。
リザさんに聞いたところによると、レースは全て手で編むんだって。その上生糸から作る本物の絹。だからお値段も凄く高くなるのか。
手作りかあ。向こうでは全部機械だったんだって改めて思ったりして…。
取り敢えず3セットづつ買って、白いワンピースの形のパジャマもあったのでそれも買って。
店を出ると、脇のほうでしゃがみこんでジャンさんが煙草を吸っていた。
「あ、終わりました?」
と、立ち上がる。
「取り敢えず一通り終わったと思うのだけど…。買い忘れが無いか、確認していて。私は不動産屋へ行ってくるわ。二人はその辺で待っていてくれるかしら?」
「分かりました。じゃあ…あの公園にいます。」
「分かったわ。じゃ。」
と、リザさんは颯爽と行ってしまった。
「じゃ、行こうか。持つよ。」
「あ…いいです。1つくらい自分で持ちます。あのっ、それに…下着、ですから。」
「あー、…別に中見ねーけど。」
「そうは言ってません。私が気まずいだけですっ。」
「ははっ、分かった。」
よいしょ、とたくさんの荷物を担いで歩くジャンさんの後に続く。
公園には、芝生やベンチや噴水があった。散歩する人や寝転がって昼寝をしている人など、何人かの人がのんびりと過ごしていた。
空いているベンチに荷物を置いて、座るように言われる。
「…アイス、食うか?」
見ると、アイススタンドがすぐ傍にあった。
「食べたい!」
「何が良い?」
「何があるんですか?」
ダーっとメニューを読み上げてくれる、ジャンさん。
「じゃ、ストロベリーを。」
「よっしゃ。」
小走りで行ったジャンさんが自分の軍服のポケットから財布を出して、お金を払っているのを見て、“あっ”と思った。人に出してもらうのに慣れかけてたけど、今、リザさん居ないじゃない!
戻ってきたジャンさんに慌てて謝った。
「すいません。お金。」
「ああ、いや。アイス代くらい出せるから、さすがに。」
「あ、りがとうございます。」
「早く食べないと、溶けるぜ。」
「はい。」
あ…なんか、やっぱり味が濃い。クリームの味かな、それとも苺の?
「美味いか?」
「はい!」
よしよしって頭をぽんぽん叩かれる。
「さっきから、何食べても美味しいので、嬉しいです。」
「そうか。美味いもんを美味く食べられんのは、大事なことだぞ。」
「ですね。元気が出ます。」
「…チヒロの場合は買い物も…だろ?」
「はい。さっきから楽しくって。…あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「今って…夏…ですか?」
さっきからじりじり暑いんだけど…。これから夏になるのか、もう夏は終わるのか。それとも今は違う季節で、夏はもっと凄いことになるのか…?
そもそも、季節や気候ってどうなってるんだろう?
「そうだな。残暑ってところかな。」
「あ、そうすると、もう少ししたら秋物の上着が要る訳ですね。」
「又、大佐に出してもらえよ。」
「あ…はは…っ。悪いですよ。もし仕事が出来てお金が稼げてたら、自分で買います。」
「…良い子だなあ。お前。」
「んな訳無いですよ。」
「良い子だって。…それよりさ、学生だったんだろ?急に仕事とかって割り切れるもん?」
「あ…えーと。私の専攻していたものが古典…んーと、私のいた国の古い文学の研究だったんです。…だから、こちらでは資料なんてあるわけが無いですしね。」
「そ…か。」
「今もっている教科書とノートだけでは、来週提出予定だったレポートを上げるのが精一杯です。…むしろ、今は科学…の勉強?」
「錬金術?」
「はい。何か私には出来るらしいので、少し覚えられたらなあ…って。ああ、でもその前に英語ですね。」
「あ、字のほうな。」
「どういう加減なんでしょうね。会話は出来るのに、文は分からないなんて。」
「アルファベットは分かるよな。」
「はい、簡単な単語も。…けど、街で見ててお店の名前の半分くらいは良く分かりませんでした。…苦手だったんですよね、元々。」
避けてきたのに、この期に及んで英語を学ぶことになろうとは!
「そういえば、ジャンさんもリザさんも。お仕事、大丈夫なんですか?」
私の買い物などに付き合ってしまって。
「あー、へーきへーき。大佐の机の上の書類。アレが処理されないと、やることないんだ。」
「そうなんですか。」
私がアイスを食べている間、ジャンさんは相変わらず煙草をふかしていて…。
「煙草、良く吸いますね。」
「あ、嫌いだった?」
「いえ、平気ですけど…。吸いすぎは良くないんじゃ?」
「やめらんねーのよ、これが。」
「あははっ、やめようとはしたんですか?」
「前の彼女に『クサイ』って言われてさ。」
「え゙っ!」
「傷つくだろ?ちっとはさ。…で、彼女といる間は吸わねーようにって思ってたんだけど…。駄目だったわ。」
「はあ、残念でしたねえ。」
「ま、しゃーねーよ。今の彼女はうるさくないし。」
「今…の?」
「おう。美人だぜ、へへっ。」
「へー。美人さんなんですかー。」
やっぱり男の人っていうのは美人がいいんだなあ。
アイスを食べ終えた後も、色々とジャンさんと話をしていると、リザさんが戻ってきた。
「今日、丁度部屋のクリーニングが入っているらしいの。今日明日の作業だって言うから作業を早めてもらって、明日の午後からは入居出来るように手続きをしておいたわ。」
「あ、はい。分かりました。」
「クリーニング中でなければ、部屋を見られたのだけど…。」
「大丈夫です。」
「…ハボック少尉。」
「はい?」
「今夜、夜勤ということは明日は早目に上がるのよね。」
「予定では10:00です。」
「じゃあ申し訳ないのだけど、明日の午前中にベッドやクローゼットなどの家具を買うのに付き合ってあげてくれるかしら?間取りが分かっていれば買いやすいでしょうし。他にも、足りない生活用品があれば色々と…。」
「あ、…良いっスよ。」
「え、でも。お休みなんじゃ…?」
「だから、時間気にせず買えるだろ?」
「ああ、何かいたせりつくせりで…。」
「いや、いいって。」
ジャンさんとリザさんが苦笑する。多分軍の方の都合とかがあっての親切っていう部分もあるのだろうけど…。でも、私にとってはやっぱりありがたいことだし…。
少なくともさっきのアイスは軍とは関係ないだろうし。
…だから、やっぱり素直に感謝させてください。
20050621UP
NEXT
長くてすいません。
買い物は買い物だけで一つにまとめてしまいました。
「鋼」の世界を、私たちは目でしか見れないけど、千尋は全身で感じているのですよね。
これからは、五感をフル活用してあちらの世界を体験していくことになります。