扉の向こうの青い空 32
このところ、皆の仕事が立て込んでいる。
大佐を煽るリザさんの表情が何時もにも増して険しくなった。
…さすがにこの頃では、鈍い私も大佐のサボり癖にも気付いてきた。一応、本人の前では気付かない振りをしているけれど。
大佐はかっこ良くて、凄いのに。何だか時々ちょっぴり情けなくて、この頃凄く身近に感じる。
で、私の前では絶対にかっこ良くしてたいところが凄く可愛いと思う。
前は、冗談で『お父さんだ〜』何て言っていたけど、この頃本当にそうだったらいいのに…とか思ったりして…。
まだ若いのに『お父さん』は失礼かなと思って黙っているけれど。
何か、家族にはなりたいなと思ったりする。…で、この頃何となく寂しい時なんかは『ああ、大佐の養女を断るんじゃ無かったかなあ』何て思ったりして。
勉強を教えてくれる時も凄く分かりやすい。
大佐もほとんど独学で勉強したのだそうで、私が躓くとすぐに気付いてポイントを分かりやすく説明してくれる。
教えてくれる人が忙しいので…って他人のせいにしちゃいけないんだけど。私の勉強の方は今、中々進まない状態。
普段なら、それもまあ仕方ないかって感じなんだけど。
今は駄目。
来週にはセントラルから面接官が来て、面接が行われるから。
それだけだって、今からドキドキしてるのに…。それまでに、レポートを仕上げて質問に答えられるようにしておかなければならない。
面接官には手を合わせての錬金術が出来ることは秘密にしておいて、尚且つ科学の勉強はしてますよ〜というアピールをしなきゃいけないので、レポート作成は私一人では無理なのだ。
大佐の持つ、匙加減と言うか誤魔化しというか…とにかくそんな技術が必要になってくる。
大佐やリザさん、ジャンさんが目の前でう〜むとうなっていた。
大佐の机の上には書類の山が2つ。
本人の名誉のために言っておくなら、これは大佐がサボっていたのではなく大きな事件が幾つか重なったため。
「とにかく、大佐。本日中にこれを処理していただければ、明日は1日時間を取れるようにします。」
リザさんが言った。
大佐は心底嫌そうに書類を睨む。
「………。…仕方ないな。」
「あの、すいません。」
「気にすんな、チヒロ。どうせいつかはやんなきゃなんねーんだから。」
「ハボック少尉。…お前。」
「事実です。」
リザさんに短く言われ、大佐が黙り込む。
けれど、ふとにっこりと笑った。
「そうだ。チヒロ。」
「はい?」
「私の家に来たまえ。」
「「「は?」」」
「家になら、初心者向けの錬金術の本が何冊もあるし、それ以前に基礎中の基礎の科学の本もある。必要事項だけを詰め込むなら最適だ。」
「…はあ。」
「大佐っ。」
ジャンさんが、非難するような目を向ける。
リザさんも難しい顔。
「泊まりに来れば良い。そうすれば、帰りの時間を気にせず勉強が出来るしな。」
楽しい遊びを思いついたような大佐。そのうきうきした様子に、思わず『良いですよ』と笑って頷きそうになって…。
「まずいっしょ。」
「そうですね。」
ジャンさんとリザさんからダメ出し。
「何でだ?」
「大佐にとって、チヒロさんが娘のようなものだとは承知しておりますが…。…今までの行いが…余りにも…。」
リザさんの歯切れの悪い言葉にジャンさんもうんうんと頷く。
「失敬だな。二人とも。」
ムッとする大佐。
「ならば、中尉も泊まりに来たまえ。それなら良いだろう?」
「嫌です。」
即答!!
室内の空気が凍りつく。
「…ハボック少尉。お願いできるかしら?」
「は?」
「何だと?男は泊めんぞ。」
「なら。チヒロさんの泊まりもなしです。」
「うっ。」
ジャンさんは、私を見て大佐を見て。はあ、とため息を一つ付いて分かりました。と頷いた。
「大佐。では、そういうことで。まずは書類の決裁をお願いします。」
「………。…君ねえ。」
キッといったリザさんに、大佐は肩を落として溜め息を付いた。
今の決定事項の中に、意見はほとんど組み入れられなかったね。大佐。
「こんばんはー。大佐ー、開けてくださいよ〜。」
入れてもらえないんじゃないかと、一抹の不安を胸に大佐の家の呼び鈴の紐を引っ張る。
「はーい。」
出迎えてくれたのはチヒロだった。
中に入ると、ダイニングキッチンにある大きなテーブルの上には、本やノートが何冊も広げられていて、本当に勉強していたんだと少し驚く。
買ってきた材料を広げていると。
「夕食は何だ。」
案外機嫌の良い上司。
「簡単に出来るものばかりですよ。」
「私、手伝います。」
「勉強は?…良いんですか?」
先生にお伺いを立てると。
「まあ、良いだろう。ちょうど区切りの良いところだ。」
お許しが出たところで、夕食の準備に取り掛かる。
今日は朝から大佐の家へ向かったチヒロ。
俺としては、1日中気が気じゃなかったけど、意外とこの先生は真面目だったようだ。
それとも、それ程レポートの方が危ないんだろうか?
「進んだのか?レポートは?」
「レポート自体はまだです。どんな風にどんな事を書くかって話で…。」
「チヒロは飲み込みが早い。」
「エ?そうですか?」
「ああ、チヒロの世界の教育制度はこちらよりもきちんと整備されているようだしな。基本が入っているからやりやすいよ。」
これがお前に教えるんだったら大変だっただろうよ。と俺に言う。
どうせね。俺はそういうの苦手ですが。と首を竦めた。
以前、チヒロの事を妹としてしか見ていなかったころは、『大佐の家に泊まりに行くって言っても止めないんじゃないか…』なんて思っていたくせに。
好きだって気持ちに気付いたら、途端に抵抗感がもたげてくる。
独占欲って奴なのか?
しょーもねーな、と自分に苦笑しつつ。
チヒロが笑っていればそれで良いやと思う自分もいたり…。
ここの台所はすっげえ綺麗で(普段、恐らくまともに料理なんてしないんだろう)、呆れるやら感心するやら。
チヒロに手伝ってもらいながら作業を進める。
「寒いから、暖かいものが良いですね。」
「色々ぶち込んでスープが良いだろ?」
「ああ。具沢山の…。なんか、想像したらお腹がすいてきました。」
俺らがわいわいやっていると、一人で待っているのはつまらないのか(手伝う気はさっぱり無いらしいのに)、自分用の錬金術の本を持ってきた大佐は。キッチンの椅子に座ってそれを広げた。
特に集中する気は無いらしく、時々こちらの会話に口を挟んだりして。
そんな和気藹々とした雰囲気の中。
ふと、何気ない口調でチヒロが言った。
「…何時も思うんですけど…、料理って理科の実験みたい。」
「うん?」
思わず聞き返した俺に、チヒロがマズイという表情になる。
?何だ?
「あ…や…、あの…何でも…。」
困ったように…と言うか、むしろオロオロとした様子のチヒロ。
「ふむ。実験か…。」
「や…その。」
チヒロの挙動不審には一切かまわず、大佐は鷹揚に頷いた。
「つまりあれだろう?チヒロの言いたいのは、熱による蛋白質の変質とか脂質の融解とか…。」
「………エ…?」
「科学の実験って言ったら、怪しげな薬品を混ぜたりするんじゃないんですか?」
「だからお前はダメだと言うんだ。」
と、大佐は俺に向かって顔を顰める。
「錬金術は台所から生まれたという説がある位だからな。チヒロは、中々目の付け所が良いぞ。」
さすが私のチヒロだとご満悦の様子。
「良いか、ハボック少尉。
煮込めば材料は柔らかくなる。熱を加えればバターも溶けて液状になる。卵の卵白と卵黄では凝固する温度が微妙に違う。科学的に説明の付く現象を経験的に知っていた昔の人々はそれらを利用して様々な料理を作ってきた。
逆から見れば、料理の過程は科学的に証明が可能というこ……。…チヒロ!?」
「チヒロ?…どうし…?」
ぽかんと大佐を見ていたチヒロの目からは、ボタボタと涙が零れ始めていた。
ガタリと大佐が立ち上がり、チヒロの傍に駆け寄る。
「どうした?」
「…わっ、私っ。前、小さい頃に、お母さんにも、同じこと、を、言ったこと、があって。」
ひっくひっくとしゃくり上げながらも大佐に訴える。
「その時、お母さん。『あんた、変な子、ねえ…』って。」
「………。」
「………。」
「おっ、お母さんに、悪気は、無かった、と、思うんです、にっこり、笑って、たし。だ、だけど。私、には、凄くショックで、『私って、ダメな、上に、変な子なんだ』…って。」
「チヒロ。」
大佐がぎゅっとチヒロを抱きしめる。
「私のチヒロは、ダメでも変でもないよ。」
優しく言う大佐の服をぎっちりと掴んで、チヒロはさらに激しくしゃくり上げた。
何だかんだ言って、大佐はチヒロの全てを容認する。
『ウチのチヒロが一番だ』と公言して憚らない。
そうやって、保護者である大佐に認められ受け入れられていくことで。
チヒロが元の世界では上手く築けなかった家族との関係を、一から築きなおしているように見えた。
20060111UP
NEXT
チヒロにとって、大佐はハボとは又別の意味で大切な人。という話。
雪が降ってないのにこの壁紙は詐偽?
一応、次回で少しフォローは入りますが。チヒロのお母さんは決して悪い人でも悪気があったわけでもありません。
『子供の発想って面白いわね』位の軽い気持ちだったんだと思います。
けど、普段からコンプレックスを感じていたチヒロには聞き流せなかった…という感じ。