扉の向こうの青い空 46

「…じゃあ。あの時チヒロはあいつを水で包んで窒息させようとしたんじゃなくて。それを『分解』させようとしてたのか!?」

「…う…うん。」

「…で、水素と酸素をあいつに練成させた…?」

「……ん。」

 エドワードとアルフォンスの言葉に、こくんと頷くチヒロ。

 は〜あと大きな溜め息をついて、マスタング大佐がうなるように言った。

「無茶をする。」

「ごめんなさい。」

「いや。怒っている訳じゃないよ。身を守るために必死になった。…それは、いいんだ。」

 そうじゃなくて…と、しばらく黙り込んでいた。

 先程指令室で今後の方針を話し合い、エドワードとアルフォンスはリゼンブールへアームストロング少佐と行くことが決まった。

 イーストシティ〜セントラル間の列車の便は1日に何本もあるが。ここから東部への列車は今日は終わってしまっていたので、兄弟は明日の午前中にリゼンブールへ立つ。今夜は大佐の仮眠室へ泊まることになっていた。

 錬金術の使えない二人を宿に帰すわけに行かなかったからだ。ここならスカーもうかつに攻めては来ないだろう。

 スカーの捜索の計画も練られ、皆出払っている。

ここには今。マスタング大佐とエドワードとアルフォンスと俺。そして、シャワーを浴びて着替えてきたチヒロだけだ。

「…あの時、ホークアイ中尉が止めてくれて良かった。」

「……え?」

「もしも、私の焔が出ていたらあの辺一帯は火の海になっていただろう。」

「………あ……。」

 水素と酸素が充満している中へ、さらに酸素濃度を上げて放たれた焔が加わったりしたら…。

 大佐や中尉が銃を撃って平気だったのは、広い通りのこちら側にいたために距離が保たれていたのに過ぎないのだ。

 その後、接近戦になっても大丈夫だったのは。恐らく降りしきる雨により、一度は集められた水素や酸素がすぐに拡散してしまったためだろう。

「わ…私……。」

「不可抗力だ。悪いことをした訳じゃない。実際には何事もなかったのだし。」

 なだめるようにマスタング大佐が言った。

 エドワードやアルフォンスも頷く。

「そうだよ。あの時チヒロがあいつの注意を逸らしてくれなかったら、俺は殺されていたかもしれないし。」

「そうですよ。チヒロさん。」

 励まされるように言われても、チヒロは小さく頷いただけだった。

 本当は俺も残って仕事があったのだけど…。

「今夜はチヒロを一人にしておかない方がいいな。ゆっくり休むのなら司令部内より自宅のほうが良いだろう…。」

「分かりました。連れて帰ります。」

「まさかスカーの奴も、真っ先にチヒロの所へ行くとも思えんし。」

「ですね。」

「頼んだぞ、ハボック少尉。」

「はい。大佐こそ、無茶しないでくださいよ。『雨の日は無能』なんですから。」

「お前達、もう少し何とか言いようはないのか。全く。…大丈夫だ。どうやら雨も上がったようだしな。」

「じゃ、帰ります。明日の朝、チヒロの様子を連絡します。」

「ああ。車を使っていい。くれぐれも頼んだぞ。」

「はい。」

「チヒロ。今夜はゆっくり休みたまえ。無理なようなら、明日も休んでいて良い。」

「……はい。」

 大佐の優しい言葉に、小さくチヒロは頷いた。

 

 

 全身を小さく震わすチヒロをやっと車から降ろした。

 チヒロの部屋の鍵を出してドアを開ける。

 ソファに座らせ、フウと溜め息をついた。…コーヒーでも入れるか。

 キッチンへ立ち、ふと思いつく。

 はっきりと聞いたわけではないけれど、チヒロはどうもミルクティーが一番好きなような気がする。

コーヒーや普通の紅茶よりも、ミルクティーを選ぶときの方が多かったような…。

 コーヒー豆を挽こうと思っていた手を止めて、紅茶の葉の入った缶を取り上げた。

「チヒロ。」

 声を掛けると俯いていたチヒロがピクリと動いた。

「………。」

 ジャンさん…と口は動いたけれど、声は出なかった。

「飲め。」

 こんな時大佐なら気の利いた言葉が掛けられるのかも知れないが、俺には無理で…。ただマグカップを差し出した。

 『いらない』と言われるかと思ったが、チヒロはゆっくりと手を伸ばし、カップを受け取った。フウフウと冷ましながら口に運ぶ。

 少しほっとして、ソファの隣に座った。

小さめの二人がけのソファは俺が座るときつきつで、自然と体が密着する。

 自分の分にと入れたミルクティー(俺のはノンシュガー)を口に運ぶ。

 しばらく二人とも言葉もなく、ただミルクティーで疲れた精神を休ませていた。

 顔には出さないようにしていたが、俺だって結構ショックだったのだ。

 エドワードたちの送り迎えで、ショウ・タッカー宅には何度か行った。その度に見かけた可愛い女の子と大きな犬。それが父親の手でキメラに練成されてしまった。

それだけでもショッキングなのに。憲兵もろとも夜のうちに殺されてしまうし。

その犯人を警戒しつつエドワードたちを探していれば、時計台の前に憲兵の死体とチヒロのバッグと傘が落ちていて。血相を変えて付近を捜索すれば、なにやら争っている気配と壊れた壁。

ようやく見つけてみれば3人ともボロボロに(エドワードはオートメイルが、アルフォンスは体が、チヒロは精神的に)なってるし。

 少佐の暑苦しさに度肝を抜かれているうちに、スカーには逃げられるし…。

 何しろ恐ろしく濃度の濃い(しかも嫌なことばかりの)2日間だった。

 フウと、また溜め息を一つついて飲み干したカップをローテーブルに置いた。

「…ご馳走様でした。」

 程なくして、小さな声で言ってチヒロもカップを置く。

「………。」

「………。」

 二人とも疲れている、ベッドへ行ってゆっくり眠るべきだ。

分かってはいたけれど、体が動かない。

 くっ付いている腕から伝わってくるチヒロの体温だけを感じて、ボーっと座っていると。チヒロが小さな声で言った。

「………。怖かった。」

「……チヒロ?」

「あの、…スカーって人が怖かった。」

「………。」

「目の前で憲兵さんが殺されて、エドやアルが殺されちゃうんじゃないかって思ったら、凄く怖かった。」

「チヒロ。」

 そっと腕を回して抱きしめる。

「私の錬金術は、結局は誰も傷つけることはなかったけど…。でも、そんなのは偶然で…。」

 頭も抱き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。

「私、…もしかしたら、あの人を殺してしまったかも。…他の皆も巻き込んでいたかも!

 わ、私っ。…あの人が死んでも良いって……。」

「大丈夫だよ。チヒロ。チヒロはエドワードとアルフォンスを守ろうとしただけだ。」

 ひっく、ひっく。としゃくり上げるチヒロ。

 チヒロは何より誰より、自分自身が怖かったんだな。

 たとえ、エドワードやアルフォンスを守ろうとしただけとはいえ。『あいつを殺してでも』そう思ってしまった自分に。

 そして、それを実行できるだけの力も持っている自分に恐怖を感じたのだ。

「…ジャ…ン、さ…。」

「大丈夫だから。誰もチヒロを嫌いになったりしない。嫌な奴とか怖いとかそんな風に思ったりしない。俺も、皆も。」

 チヒロの目元にそっと唇を寄せて、涙を拭う。

 額に、頬に、瞼に…何度も、何度も口付ける。

 …そして…。ゆっくりと唇を重ねた。

 ピクリと体が動いたけれど、チヒロの反応はそれだけで。

嫌がられていないのかな?反応を探りながら、徐々に深く唇を絡めていく。

「……ふ……。」

 くちゅっと音を立て、唇を離した。

「………。」

 閉じられていたチヒロの瞼がゆるりと開き、潤んだ瞳がこちらを見上げてくる。

「……っ。」

 ドクンと心臓がなった。

 ここまでなら、…ちょっと苦しい言い訳だけど『慰めるためだった』と言える。

 けれど、もう。

 この気持ちは抑えられそうになかった。

 頭の隅で『弱っているところに付け込んでいるのかも』との想いも拭えない。

でも。もう『兄』なだけじゃ嫌なんだ。

 チヒロの身体を抱き上げると、寝室へと向かった。

 変だな。さっきまで指1本だって動かしたくない位疲れていたはずなのに。

 チヒロをそっとベッドに降ろすと、体重を掛けてその身体を沈めていく。

「……ジャン……さん……。」

 不安そうに見上げてくる。

「…あ……えっと、…イヤ…かな……?」

 もしも『嫌だ』といわれたら…。すっげえ辛いだろうけど、でも我慢する覚悟で恐る恐る聞いた。

「………。」

 ううん。とかろうじて首がわずかに横に振られたように見え、ほっとしつつ。

 そっと首筋に唇を落とした。

 初めてらしいその身体を、感動を持ってゆっくりと開いていく。

 その間、チヒロはずっとポロポロと涙を流していた。

 それは多分。一度にたくさんのことが起こって、自分の中で処理しきれなかった感情が零れ出したもの。

 その涙を何度も何度も唇で拭った。

 明日の朝には、涙も止まって。いつもの笑顔が戻れば良いのに…。

 そう、思いながら…。

 

 

 

 

 

 

20060310UP
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長かったっス。やっとここまでたどり着きました。
なるべく自然でいようとする二人のタガが外れる時って、きっと精神的に物凄くしんどい時だろうと考えて…。
…というか、ここでくっ付けると決めていたので今までじらし続けました…。お待たせしました。
後、原作ではエドたちはすぐにリゼンブールへ行ったようですが、勝手に次の日にさせていただきました。すみません。
(06、03、24)

 

 

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