扉の向こうの青い空 52

「皆もだけど、ジャンさんだって、ここに付きっ切りなんですからね。」

「………。」

 感無量といった様子の少尉は、にっこりと優しい顔でチヒロさんに笑いかけた。

 その後、書類作成への作業を始めたらしく車内は静かになった。

 しばらくして、仕事が終わったのか少尉の声が聞こえてきた。

「これくらいの量なら、休憩時間の内に終わったな。」

「そうですか?」

「何で、休憩が終わってから出してきたんだ?」

「大佐にも休憩が終わってから渡せって言われてたし。そうじゃなくても、私もそうするつもりでしたよ。」

「だから何で?」

「休憩時間は休憩時間でしょ?ジャンさんのことだから、休憩時間に事務作業してたって終わったらすぐに現場作業に戻るんじゃないかと思って。」

「………。」

「ジャンさんだって、ちゃんと身体を休めなきゃね。」

「…けどなあ。俺は事務作業があるからほとんどが日勤なんだよ。皆は夜勤も含めてローテーションしてんだぜ。あいつらの方が、絶対に疲れてる。」

「でも、1日の勤務時間はジャンさんの方が長いでしょ?」

「そりゃ、まあ。そうだけど。」

 車内での話は続いていたけど、私はそっとその場を離れた。

 入り込めない二人の雰囲気はなんだろう?

 『私はハボック少尉の彼女』

さっきまで露ほども疑っていなかったけど、この時初めて心の中に小さな小さな疑問符が生まれた。

ま、まさか!

私、二股掛けられてるの!?

 

 

 当たり前のように、俺のことを気遣ってくれるチヒロに嬉しくなる。

 事務作業を終えて、ボーっと煙草をふかす俺の隣で、チヒロが静かに座っている。

俺のつかの間の休憩を邪魔しないようにしてくれているのだ。

「…じゃあ、これ。中尉に渡しといて。」

「はい。」

「大佐は真面目にやってんのか?」

「うーん、まあまあ。」

「……あの人はー…。」

「でも、そこそこやってますよ。この間、抜け出してリザさんにすんごい怒られたから。」

「へえ?」

「『そんなに事務作業がやりたくないんなら、ハボック少尉の作業現場に放り込みますよ!』って。」

「俺の仕事は罰ゲームかよ…。」

「リザさん、やるって言ったら必ずやりますもんね。それ以来大佐も比較的真面目にやってるから、ジャンさんが大変だってことは分かってくれてますよ。」

「お前。本当に良い子だなあ。」

「う〜。20歳過ぎたんですから『良い子』は止めて下さい。」

「わりぃ、わりぃ。そうだよな。子供にはこんなこと出来ないしな。」

 チヒロを抱き寄せて、口付ける。

 少し舌で口内を探ると、『うん』と腕を突っ張って押し戻される。

「こんなとこじゃ、イヤだったか?」

「あ…えと…。」

 誰もこちらを見てはいないが、ちょっと覗き込めば見えるところだ。

「ううん。ごめんなさい。」

 気まずげな表情で俯くチヒロに不安になる。

 やっぱりあの受付の女の話を聞いてるのか?

 それとも、冷静になったら俺のことはどうしても『兄』としか思えないとか?

 チヒロが落ち込んでいる時に、勢いで持ち込んでしまったようなもんだし…。

いまさらながら不安になる。

「チヒロ?」

「あ…あの、本当、ごめんなさい。…ちょっと、あの。…埃っぽくて…。」

「へ?」

「ごめんなさい、本当に!ジャンさんが一生懸命お仕事頑張ってるってことなのに!」

 『埃っぽい』?

 …あ、口の中がか?

 心底申し訳無さそうな、チヒロに思わず笑みがこぼれる。

 ほとんど経験が無いらしいのに(ぎこちないしぐさでそれくらい分かる)埃っぽいキスはかわいそうだよな。

「悪かった。…続きは夜な。」

「は?」

「今日は少し早く帰れると思うから。」

「そうなんですか?」

「ああ、司令部へ戻ってからやる事務作業の半分位、今処理終わったから。」

 と紙袋を示した。

「あ、これそうだったんですか?…じゃあ、これからも配達しに来ましょうか?」

「チヒロに合えるのは嬉しいけどな。お前のことだ、来るとなりゃさっきみたいに大荷物抱えてくるんだろ?大変だから、いいよ。」

「でも。」

「とりあえず。明日は俺、午前中休みだから、お前も休め。」

「え?」

「チヒロもずっと休んでないだろう?」

「……あ……。」

「気付いてないと思ったか?俺のここでの作業が始まってからずっと、きちんと休んでねーだろ?」

「………。」

「確かにチヒロには決まった休みは無いけどな。でも、休むべき時にはきちんと休まねーとな。」

「あの、でも。ジャンさんが大変なお仕事をしてるのに…。」

 …だから、申し訳なくて休めなかったって?

チヒロ、可愛い過ぎだ…。

 抱きしめて、チュッと触れるだけのキスをする。

「いいから、とにかく明日はお前も休み。な。」

「は…い。」

「よし。今夜は覚悟しとけな。」

「?」

「寝かさねーから。」

 ニッと笑って言うと、チヒロの頬が真っ赤になる。

「や…な…っ。ジャンさん!?」

 焦るチヒロをさらにぎゅっと抱きしめた。

「じゃ、気をつけて帰れよ?」

 耳元で、少し低めの声でそっと囁くように言った。

「う……もう。」

 少し恨めしげに見上げてくるその視線までもが、俺を煽る。

 ……夜まで我慢だ、俺。

 紙袋を持って司令部へ戻るチヒロを見送って、俺は作業へと戻ったのだった。

 

 

 人間というのは、結構現金な生き物だと思う。

 他の女の人に告白されたと聞けば不安になる。

 たとえ、ジャンさんがその告白を受けた訳ではないのだとしても。相手の女の人が勘違いして言いふらしているだけだとしても…だ。

 丁度、ジャンさんと一緒にいられる時間が減ってしまった時期と重なってしまったせいもあるのかも知れない。

 朝のほんの少しの時間(ジャンさんは半分寝ぼけていて、ほとんど会話できる状態じゃない)と夜のほんの少しの時間(ジャンさんはとても疲れていて、ほとんど会話できる状態じゃない)だけ。

 心の支えは、毎朝お弁当を渡したときの『サンキュ』って言う笑顔。

 そして、毎日綺麗に空になって返されるお弁当箱。

 だから。差し入れに行ったのは、本当は私が会いたかったから。

 ジャンさんが、いつもと変わりなく皆の前で私をぎゅっとしてくれて。それを皆が変わりなく笑ってくれて。

 ああ、何にも変わってないってほっとした。

 やっぱりアレは、相手の女の人の勘違い。

 ジャンさんの気持ちが動いたりってことは無い。

 心の中のわだかまりが全て消えたわけではなかったけれど、その時私は結構ほっとしてもう悩むのはやめようと…思った。

 ジャンさんは私をとっても大切にしてくれている。自分のお仕事がとっても大変なのに、私の休みまで気にしてくれていたり…。

 だから、不安がることなんて無いんだわ。と自分に言い聞かせた。

 そして、その夜。

 翌日休みだから…と、何度キスされたのか。抱きしめられたのか。…もう、覚えていない位。

 触れ合う肌の暖かさ。ぎゅっと抱きしめられる幸福感。

 そして。いつもは夕食を食べてふらふらとシャワーを浴びて、すぐに寝てしまうジャンさんの瞳が、真直ぐに私を見てくれているのが嬉しかった。

 …だから、『もう、止めて下さい』と言えなかった私も悪いのかも知れないけど…でも…。

 ………身体がだるくて、…朝起きられなかった…。

 信じられないよ!もう。

 ジャンさんが作ってくれたブランチを食べて、出勤するジャンさんを送り出した後。又、寝ちゃったし。

 夕方になってようやく起き出して、買い物に出て夕食を作った。

 …けど、ついついいつもより簡単なものとなってしまう。

 そんな感じで。身体はだるかったけど、心の方は満たされていた。

 ふわふわとした幸せな気分。

 買い物に行ったお店の人にも『何か、良いことあった?』なんて聞かれたりして。

 心の中にわだかまっていた小さな不安なんて、どこかに消えてしまった。

 ホンと、人間って結構現金な生き物。

 昨日までとは、全く違った気持ちでいる自分に苦笑してしまう。

 

 

 1日中、幸せ気分をかみ締めていた私。

 けれど、いつもより早めに帰ってきたジャンさんの顔は強張っていた。

「……ヒューズ中佐が亡くなった。」

「……え?」

 夕食のセッティングをしようとしていた私の手から。

するりと抜けた二人分のフォークとスプーンが、大きな金属音を立てて床に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

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とうとうここまで来ました。
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