扉の向こうの青い空 53

 

『チヒロちゃん。野望ってあるかい?』

『は?…野望…ですか…?』

『そ。落ち着いたら何がしたい?』

『え…と、色々と勉強を…』

『あ〜、違う違う。それはやらなきゃいけないことだろう?

そうじゃなくて、チヒロちゃんがやりたいこと…だよ?

出来るかどうか。じゃ無くて、単純にやってみたいことさ。』

『えーと。わりと今、一杯一杯であんまり考えられないんですけど…。

でも落ち着いたら…そうですね。

この国のいろんなところを見てみたいですね。』

『いろんなところ?』

『はい。私はまだ、この街しか知らないので…。』

『そうか〜。出張扱いで旅すれば、交通費タダに出来るかも知れんぞ?』

『ふふ。本当ですか?』

『本当だぞ。…ようし、そんときは俺に連絡しろよ。出張の書類の作り方を教えてやる。』

『ふふふ。はい。』

あれは、確かヒューズ中佐と初めて会ったときだった。

たまたまほんの少し二人だけになる機会があって、そんな会話をした。

まだ、中佐のことを警戒していた私はかなりかしこまってドキドキしていたと思う。

何てこと無い世間話。

緊張していた私の気持ちをほぐそうとしてくれていたのだと、全く気にもしていなかったそんな会話。

けれど、それをちゃんと覚えていてくれて。

年末にお宅へ遊びに行ったときには、アメストリスのいろんな場所の風景が集められた写真集をプレゼントしてくれたのだった。

『いつか実際に、色々と見てまわれると良いな。』

そう、優しく笑って。

 

 

 ジャンさんにしがみ付いて、たくさんたくさん泣いた。

 出張する時の書類の作り方、教えてくれるって言ったのに!

 又、遊びに来いって言ってくれたのに!

 私のこと、二人目のお姫様だって言ってくれたのに!

 どうして!どうして!どういうことなの!

 悲しいんだか、悔しいんだか、腹が立って仕方が無いのだか…。なんだか訳が分からなくなって…、そのうち疲れて涙も声も出なくなる。

「落ち着いたか?」

 夕食も食べずに私についていてくれたジャンさん。

 …ジャンさんこそ、大丈夫?…ご飯食べて…。…シャワー浴びてゆっくり休んで…。

 …何か話さなきゃ…。そう思うけど、声が出ない。

「んー?何だ?」

 あやすように顔を覗き込んでくる。

 ああ、今きっと目は腫れていてすっごい不細工な顔だろう。

「……本当…に…?」

 ようやくかすれた声が出た。

「…ああ。」

「間違い、じゃ。無く?」

「……ああ。」

「………。」

「……シャワー浴びて寝るか?」

「………。」

 フルフルと首を横に振って。

「……ジャンさん、ご飯。」

「ん…ああ。自分で食うから平気だよ。」

 もう、出来てんだろ。と小さく笑う。

 うん。と頷いたけど…。しがみ付いたジャンさんの身体を離せない。

 大好きな煙草の匂いを嗅ぎながら、『ああ。そうか』と気が付いた。

 ヒューズ中佐が亡くなったのは勿論ショックだ。

 腹が立つほど悲しいし辛い。

 グレイシアさんやエリシアちゃんのことも心配だ。

 …けれど、何よりも怖かったのは…。

 ……この人も死んでしまったらどうしよう……。

 戦争に行っているわけじゃないからって安心していた。

 けど、やっぱり軍人なのよね。

 普通に。当たり前に銃を携帯している。

 ジャンさんもいつか死んでしまうの?

大佐は?リザさんは?ブレダ少尉、ファルマン准尉、フュリー曹長は?

 あと、ジャンさんやブレダ少尉の隊の人達は?

 いつか皆死んでしまうの?

 今までだって、事件や事故で司令部の誰かが怪我をすることはあった。ジャンさんの隊の人がナイフで切り付けられたり…なんてこともあった。

 けど、『死』はあまりにも遠くて、もしかして誰かが…なんて考えたことも無かった。

 軍人って言う職業柄、多分皆はそれぞれに覚悟はあるんだろう。けど、私にはそれが出来ていなかった。

 いつか身近な誰かが…もしかしたら私が…。

 一度死んでここへ来たくせに、やさしい人達に囲まれた毎日ですっかりそれを忘れてしまっていたけれど。

 そう、私たちのすぐ傍に『死』はあるのだ。

 この間のスカーの事件の時に直面したはずなのに。

むしろ自分の錬金術の方に気が行ってしまい、それどころじゃなかった。

 結局。

 どれほど言葉を飾ろうと。私は、やっと出来た家族ともいえる人達を…大好きなこの人を失うのが怖いのだ。

 失ってしまった苦しみや悲しみに、耐えなければならないことに怯えている。

 そう、結局。

 私はただ。自分のエゴで。それで泣いていただけなんだ。

 

 

 泣きじゃくるチヒロを抱きしめながら、俺は内心溜め息を付いていた。

 ヒューズ中佐が亡くなった。

 それ自体も、とてもショックだ。

 さすがマスタング大佐の親友と言うべきか。俺達部下にも実に気さくで良い人だった。

 以前一度飲みに誘ってもらったことがあった。

 俺だけ階級がずっと下なのに、マスタング大佐と3人でとても楽しい時間を過ごせたのを覚えている。

 長時間に及ぶ家族自慢は確かにちょっと迷惑だったけど、指令室の皆があの人を好きだったと思う。

 だから、そんな良い人が死んでしまったのは悲しい。

誰かに殺害されたらしいから、殺した奴を憎いと思う。

 …けど…。

 今付いている溜め息はそれとは別の理由から。

 『中央の』『中佐』が亡くなったということは。中佐が知りえる情報や使える権限を、マスタング大佐が使えなくなったということだ。

 今後、大佐が何か情報が欲しいと思ったら自分で動かなければならなくなる。

 なぜなら俺達は、中尉以下所謂『士官』ばかりで、『佐官』とは知りえる情報や使える権限には雲泥の差があるからだ。

 ヒューズ中佐のことだから、自分がヤバイ情報を集めていたってばれるようなマネはしないだろうし。仮に自分がばれたにしたって、マスタング大佐にまで影響が及ぶような事態にはならないようにしていただろう。

 そういう、今までマスタング大佐の目や耳であった人が亡くなった。

 それにより大佐はおのずと行動や得る情報に制限が出来てしまう。

 本当に。今まで俺は出世になんてあんまり興味が無かった。

 そんな風にのんびり構えていられたのも、マスタング大佐と俺達の間にヒューズ中佐がいてくれていたからだったのだ。

 あと、もう一つ。

 少し前から感じていた焦燥感。

 この頃、中央から来るチヒロの面接官の質問が専門的になってきた。

 多分チヒロの知識を軍事登用したいという目論見を諦めていないのだ。

 これから、恐らく中央でのチヒロの注目度は上がってくるだろう。

 それら所謂『権力』から、『少尉』でしかない俺がどれだけ彼女を守れるだろうか?

 多分、チヒロとのことをいまだ誰にも言えないのはそういう自分への自信の無さからだろう。

 そんな俺が、このところやっていた仕事は何だ?

 エドワードたちが解決した列車ジャック事件の後処理。

 スカーには逃げられた。

 それ以後はまともな調査も出来ずに瓦礫撤去作業だ。

 仮にあの現場からスカーの遺体が出たとしたって、俺の現状には何の変化もないだろう。

 出会った頃チヒロに『出世とかってどう思います?』そう聞かれたとき『適当でいい』そう答えた気持ちに嘘は無かった。

 マスタング大佐に付いていければ、その役に立てれば。

血眼になって出世してやりたいことがあるわけじゃなし。物凄い出世ではなくても、それなりに適当に上がっていければそれで良いと思っていた。

 けど、それでは足りないのではないか?

 いまだ『少尉』でしかない俺は、マスタング大佐の役にも立てず。大切なチヒロのことも守れない。

 軍人になってからこんな無力感を感じたのは初めてだった。

 いつもその時なりに、自分の出来ることを精一杯やってきた。

 不真面目に見られがちな俺だけど、与えられた仕事については最善を尽くしてきたつもりだ。

 命あってのモノダネ。

 マスタング大佐の護衛官だから、あの人の盾となって命を落とすのは…まあ、ありえることかなとは思っていたけど。

それ以外で無理も無茶も、するつもりは毛頭無かった。

 俺なりに、出来る分だけのことをやっていれば、それで良いと思っていた。

 それで、充分だと思っていた。

 それでは足りない。

…なんてことになるなんて…思いもしなかったんだ。

 

 

 

 

 

 

02260501UP
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ヒューズ氏がチヒロに風景の写真集をプレゼントしたのは、こんな裏話があったから。
それと、以前将軍が言っていた『現状に満足していた者が、もう少し努力してみようと思う』ってのはハボのことでした。
ちなみに『目標に向かってキリキリと余裕の無かった者が、ふとわが身を振り返る』ってのが大佐です。
ヒューズ氏の存在って、人間的にもそうだけど軍人の立場的にも大佐にとって大きかったはず。
(06、05、08)

 

 

 

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